第二十三話 三年後の街
エルフォニア人間王国・北の港町ベルナ。
その男は、誰の記憶にもない。
名前はない。
過去の記憶もない。
冬の朝、海岸に流れ着いているのを網を引きに来た漁師が見つけた。裸で、痩せていて、戦傷らしい傷跡がひとつもない、妙に無傷な体をしていた。ただ、右の掌の指の付け根のあたりにだけ、古い火傷の痕がうすく残っていた。港の宿屋の女将が引き取って、下働きとして雇った。
彼はよく働いた。
薪を割った。水を汲んだ。魚の入った樽を二つ同時に担いだ。力が強かった。ときどき、女将が驚いて振り返るほど強かった。
酒場の喧嘩をひとりで止められた。刃物を持った男の手首を握って離させることができた。骨が、そういうことのやり方を覚えているようだった。
彼は文字を書けなかった。だから、宿の帳面はつけられない。
彼は魚の名前を知らなかった。だから、市場では黙って荷を運んだ。
彼は自分が何歳なのかを知らなかった。女将は「三十くらいだろう」と言い、彼はそれを信じた。彼は、人の言うことを疑わなかった。疑うということを、そもそも思いつかない男だった。
三年、彼はそうやって生きた。
三年というのは、長い。
一年目の冬、彼は自分の名前を思い出そうとして、毎晩屋根裏で天井を見ていた。
二年目の冬には、それをやめた。名前がなくても、薪は割れる。水は汲める。誰も困らない。宿の者は彼を「おい」と呼び、市場の連中は「宿の兄ちゃん」と呼んだ。呼ばれれば、彼は振り返った。それで足りた。
三年目には、彼は自分が過去を持たない男であることに、すっかり慣れていた。
港には彼の顔見知りが増えた。魚を焼く婆さんは、余り物の切り身を紙に包んで、黙って彼の掌に押しつけてくる。船大工は彼に酒を奢って言った。
「お前、名前がなくて、不便じゃねえのか」
「不便じゃない」と彼は答えた。「呼ばれれば、分かる」
宿の女将は彼のために、屋根裏に窓を一つ開けてくれた。彼は礼を言い、笑い、働き、眠った。
彼は、幸福ではなかったが、不幸でもなかった。
不幸になるための材料を、彼は何ひとつ持っていなかった。失ったものの名を、ひとつも覚えていなかったからだ。
*
彼には、不思議なことがふたつあった。
ひとつ。彼は夢の中で、よく泣いた。
誰かを傷つけた、という夢だった。
顔は見えなかった。声も聞こえなかった。
ただ、傷つけたという感覚だけが、毎晩残った。
朝、起きると、彼はいつも頬が濡れていた。
同じ屋根裏で寝ている船大工の見習いが、あるとき彼に訊いた。誰の夢だ、と。
彼は答えられなかった。
「分からない」と彼は言った。「ぼくは、その人に謝りたいんだと思う。名前も、顔も知らないのに」
見習いは笑って、それは夢じゃなくて、忘れた女だろう、と言った。
彼はそうかもしれない、と答えた。答えた声と、腹の底で鳴る何かが、ずれていた。違う。何が違うのか、彼にも説明はつけられなかった。
ふたつ。彼は、紅茶を淹れる女を見ると、目が離せなくなった。
宿の食堂で朝、客に茶を運ぶ女中がいる。湯気の立つカップを、女の手が卓の上に置く。それだけのことだった。
それを見ると、彼の胸が激しく痛んだ。
痛みには、前触れがなかった。喉の下のあたりが締まり、息が浅くなり、しばらく手が動かなくなる。医者に診せろと女将は言った。彼は行かなかった。どこも悪くないことを、彼は知っていた。悪いのは、体ではなかった。
一度だけ、彼は自分でそれを淹れてみたことがある。
茶葉を量り、湯を沸かし、カップに注いだ。
ひと口飲んで、彼は顔をしかめた。
苦い。
舌の裏に、その苦さが居座った。知っている苦さだった。
どこで飲んだのかは、思い出せなかった。誰が淹れたのかも、思い出せなかった。
ただ、この苦いものを、自分は毎晩飲み干していた気がする。好きではないまま、一度も残さずに。
彼はカップを持ったまま、しばらくそこに座っていた。
茶が冷めるまで、動かなかった。
*
三年目の冬の夜、酒場で彼は絡んできた水夫を止めようとした。
水夫はナイフを振り回した。
彼の脇腹に、深い切り傷ができた。
彼は膝をつき、自分の血をしばらく見ていた。
床に落ちた血は、灯りの下で、鮮やかだった。
血は赤い。妙に、きれいな赤だった。
なぜだか、無性に落ち着かない気がした。
理由は、彼には分からなかった。
気のせいだろう、と彼は笑った。
それから、気を失った。
宿の女将が荷車に彼を乗せ、坂を下って、ベルナ市営病院へ運んだ。
夜間救急の灯りが、ひとつだけ、点いていた。




