第二十二話 何もかも棄てる契約
竜の長老の祠は、火山の底にあった。
降りるのに、七日かかった。
火竜であれば、翼で一息に降りられる場所だった。ヴェルグリムは翼を使わなかった。使えば、途中で北を向いてしまう気がした。彼は岩を掴み、熱で掌を焼きながら、一段ずつ自分の足で降りた。
底には、火の池があった。その縁に、古い竜が一頭腹をつけて横たわっていた。
鱗は色を失い、白く粉を吹いている。千年生きた竜は、こうなるらしかった。
長老は片目だけを開けた。
「お前か。番を失った、火竜の王子は」
「失っていません」とヴェルグリムは答えた。
「匂いは戻りました」
「では、なぜここにいる」
「……分かりません」
「分からぬ者に、やってやることは何もない」
長老はそう言って、目を閉じた。
それきり三日、口をきかなかった。
*
四日目に、ヴェルグリムは言った。
「私を人間にしてください」
長老は笑い声を立てた。岩の割れる音に似ていた。
「馬鹿を言うな」
「本気です」
「本気の馬鹿ほど、始末に負えぬものはない」
長老はゆっくりと首をもたげた。
「お前は火竜王家の血だ。王が死ねば、火を継ぐのはお前だ。国境の三つの砦は、お前の火があるから静かにしている。お前が消えれば、あれは動く。人間の国と竜の国が、また五十年殺し合う。それを女ひとりのためにと、お前は言うのか」
「弟がいます」
「あれは火が弱い」
「弱い者が王になれば、国は戦を避けます」
長老は黙った。
「言い訳を、覚えたな」
「言い訳です」とヴェルグリムは認めた。
「私は、私の国を私の都合で置いていきます。それは、卑怯です。私は、そう生きてきました。今更直りません」
「ならば、飛べ」と長老は言った。
「北へ行け。連れ戻せ。竜のやることだ。誰も咎めぬ。お前の鼻はもう戻っている。三日で城の塔に、あの女を戻せる」
「それは、しました」
「したのか」
「一度しました」とヴェルグリムは言った。
「檻に入れて、絹を積んで、宝石を積んで、名を呼びました。それで、彼女は私を日に日に嫌いになりました」
「もう一度やれば、今度は違うかもしれぬ」
「違いません」
「なぜ、分かる」
「彼女が、そう書いたからです」
「では、待て」と長老は言った。
「百年、待て。竜の百年は短い。人間の女は死ぬ。死ねば、番の鎖は切れる。お前は自由になり、王になり、次の番を得る。それが竜の生き方だ」
ヴェルグリムは顔を上げて、長老を睨んだ。
「彼女が死ぬのを待てと、言うのですか」
「竜は、そうしてきた」
「では、竜が間違っていました」
火の池が、ひとつ、跳ねた。
*
長老は長いこと、彼を見ていた。
「他に道はある」と、やがて言った。
「記憶だけを消してやってもよい。あの女の記憶だけを抜いてやる。お前は火竜のまま、王子のまま、あの女を忘れる。国も残る。翼も残る。誰も損をせぬ。どうだ」
ヴェルグリムは少し考えた。
考えている自分に、彼は驚いた。
それは、あまりに都合が良かった。何ひとつ失わずに、痛みだけが消える。竜として生き、火を継ぎ、あの塔でまた誰かの匂いを嗅いで、また同じことをする。
「それは、彼女の役に立ちません」と彼は言った。
「ほう」
「私が忘れても、彼女は逃げたままです。名を変えたままです。振り返らないままです」
「私は、彼女にもう一度会いたい」
「番としてではなく」
「人間として、彼女の前に立つ」
「彼女が、私を初めて見るように」
「私を、彼女の選択肢のひとつに戻したい」
「選択肢に戻ったところで、選ばれぬかもしれぬぞ」
「選ばれないかもしれません」
「無駄になるぞ」
「無駄になります」
ヴェルグリムは、そこで少し笑った。
「彼女に選ばれないという結末がありうる、ということが、私には嬉しいのです」
「番には、それがありませんでした」
長老は深い、深いため息を吐いた。
灰が舞い、火の池の面が曇った。
「お前は、ようやく愛を知ったな」
「番の本能を、超えたな」
「分かった。望み通り、人間にしてやろう」
*
「棄てるものを、言え」
「すべての魔力を、棄てます」
「鱗を、棄てます」
「爪を、棄てます」
「火を、棄てます」
「長命を、棄てます」
「竜の記憶を、棄てます」
「戻らぬぞ」
「分かっています」
「お前は、自分の名も忘れる。彼女に出会った記憶も、彼女を傷つけた記憶も、彼女に薬を盛られた記憶も、すべて消える」
「分かっています」
「彼女に出会っても、お前は彼女を知らぬ」
「そのほうが、いい」と、ヴェルグリムは言った。
「私の中に残った、私の記憶は、彼女を追い詰めます。私は、私を私のまま彼女の前に置けません」
「私は、私を棄てたい」
「ただし、ひとつだけ、お前に、残るものが、ある」
「これだけは、削れぬ」
長老は、片目で、彼の胸のあたりを見た。
「竜の魂には、核がある。記憶は表に書かれるが、核に刻まれたものは、体を変えても削れぬ。そこに残るのは、ふたつだ」
「ひとつは、お前が彼女を傷つけた後悔だ」
「名前は忘れる。顔も忘れる」
「なのに、お前は夢の中で誰かを傷つけたと、泣くだろう」
「その夢を、お前は人間として生涯、見続けるだろう」
「もうひとつは」
長老は少し言い淀んだ。千年生きた竜が、言い淀んだ。
「お前が、あの女と過ごした時間の断片だ」
「意味を失った断片だけが、残る」
「何の場面だったのか、誰といたのか、それは分からぬ。ただ、形だけが残る」
「湯気の立つもの。手の形。声の高さ。そういう、意味を剥がされた欠片が、お前の中で理由もなく痛む」
「お前は生涯、その痛みに名前をつけられぬ」
「それでも、よいか」
ヴェルグリムは目を閉じた。
彼が最後に思い出したのは、塔の厨房の床だった。
彼女が湯を沸かしている音。二つの杯。片方は空。苦い。そうです。なぜ、こんなものを毎日飲む。苦いからです。
それだけを、彼は頭の中でもう一度なぞった。
なぞりおえて、彼は目を開いた。
溶けた金属の色をしていた瞳は、すでに冷えて、人間の茶色に変わり始めていた。
「それで、いい」
「私は、その夢を抱いて生きる」
「それが、私の贖罪です」
*
火が、彼の内側から、抜けていった。
鱗が剥がれ、灰になり、火の池に落ちた。角が砕けた。翼が縮み、膜が乾き、肩の中へ吸い込まれるように消えた。爪が黒さを失った。指の関節が一節消えた。指は、人間の指の長さになった。ただ、第二関節が、ほんのわずかに後ろへ反るその形だけが残った。
背が縮んだ。喉が焼けるように熱くなり、それきり二度と熱くならなくなった。
最後に消えたのは、深紅の髪の色だった。それは根元から、ゆっくりと、ありふれた暗い茶色に変わった。
火山の底で、火竜の王子は、燃え尽きた。
そこに残ったのは、見知らぬ人間の男、ひとりだった。
男は裸のまま、火の池の縁に倒れていた。
何も覚えていなかった。自分の名前も、なぜここにいるのかも。
ただ、眠りながら泣いていた。




