第二十二話 名のない男
# 第二十二話 名のない男
ヴェルは、宿屋に戻れなかった。傷は、深かった。
病院に併設された療養棟で、一月の安静が、必要だった。
アイリスは、毎日、彼を、診た。
彼は、彼女に、よく、質問した。
「先生は、ご結婚は」
「していません」
「お独りで、寂しく、ありませんか」
「寂しいと感じる時間が、ありません」
「お忙しい、ですか」
「忙しい、というより ── 私には、過去に、非常に、煩い、男が、いまして」
「そんな男、いたんですか」
「ええ」
「どんな人」
「私の朝食を、毎日、決めたがり、私の本を、毎日、選びたがり、私が他の男と話すのを、嫌がる、男でした」
「うわ、最低ですね」
「ええ、最低です」
「先生、よく、別れられましたね」
「ええ、頑張りました」
ヴェルは、笑った。
アイリスも、少し、笑った。
笑いながら、彼女は、悲しかった。
彼は、自分の話を、自分のこととして、笑っている。
それでも、彼は、もう、その男では、ない。
「ヴェルさんは、ご結婚は」
「ぼくは、過去が、ないので、結婚した、かどうかも、分かりません」
「指輪の跡は、ないですね」
「ですね。たぶん、独身です」
「お好きな、女性は」
「いま、目の前に」
アイリスの、聴診器を、握る手が、止まった。
「すみません、変な事を」と、ヴェルは、慌てて、言った。
「先生は、ぼくの、命の恩人です。たぶん、それを、好きだと、勘違い、しています」
「お気を悪く、なさらないで、ください」
「気に、していません」と、アイリスは、答えた。
答えながら、彼女の、心臓は、医師として、許されない、速さで、打っていた。




