↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
番を棄てて逃げた医師ですが、すべてを失った元・火竜王子が病院に運ばれてきました  作者: 鷹居鈴野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/34

第二十二話 何もかも棄てる契約

竜の長老の祠(ほこら)は、火山の底にあった。


降りるのに、七日かかった。

火竜であれば、翼で一息に降りられる場所だった。ヴェルグリムは翼を使わなかった。使えば、途中で北を向いてしまう気がした。彼は岩を掴み、熱で掌を焼きながら、一段ずつ自分の足で降りた。


底には、火の池があった。その縁に、古い竜が一頭腹をつけて横たわっていた。

鱗は色を失い、白く粉を吹いている。千年生きた竜は、こうなるらしかった。


長老は片目だけを開けた。


「お前か。番を失った、火竜の王子は」


「失っていません」とヴェルグリムは答えた。

「匂いは戻りました」

「では、なぜここにいる」

「……分かりません」


「分からぬ者に、やってやることは何もない」


長老はそう言って、目を閉じた。

それきり三日、口をきかなかった。


   *


四日目に、ヴェルグリムは言った。


「私を人間にしてください」


長老は笑い声を立てた。岩の割れる音に似ていた。


「馬鹿を言うな」

「本気です」

「本気の馬鹿ほど、始末に負えぬものはない」


長老はゆっくりと首をもたげた。


「お前は火竜王家の血だ。王が死ねば、火を継ぐのはお前だ。国境の三つの砦は、お前の火があるから静かにしている。お前が消えれば、あれは動く。人間の国と竜の国が、また五十年殺し合う。それを女ひとりのためにと、お前は言うのか」


「弟がいます」

「あれは火が弱い」

「弱い者が王になれば、国は戦を避けます」


長老は黙った。


「言い訳を、覚えたな」

「言い訳です」とヴェルグリムは認めた。

「私は、私の国を私の都合で置いていきます。それは、卑怯です。私は、そう生きてきました。今更直りません」


「ならば、飛べ」と長老は言った。

「北へ行け。連れ戻せ。竜のやることだ。誰も咎めぬ。お前の鼻はもう戻っている。三日で城の塔に、あの女を戻せる」


「それは、しました」

「したのか」

「一度しました」とヴェルグリムは言った。

「檻に入れて、絹を積んで、宝石を積んで、名を呼びました。それで、彼女は私を日に日に嫌いになりました」


「もう一度やれば、今度は違うかもしれぬ」

「違いません」

「なぜ、分かる」

「彼女が、そう書いたからです」


「では、待て」と長老は言った。

「百年、待て。竜の百年は短い。人間の女は死ぬ。死ねば、番の鎖は切れる。お前は自由になり、王になり、次の番を得る。それが竜の生き方だ」


ヴェルグリムは顔を上げて、長老を睨んだ。


「彼女が死ぬのを待てと、言うのですか」

「竜は、そうしてきた」

「では、竜が間違っていました」


火の池が、ひとつ、跳ねた。


   *


長老は長いこと、彼を見ていた。


「他に道はある」と、やがて言った。

「記憶だけを消してやってもよい。あの女の記憶だけを抜いてやる。お前は火竜のまま、王子のまま、あの女を忘れる。国も残る。翼も残る。誰も損をせぬ。どうだ」


ヴェルグリムは少し考えた。


考えている自分に、彼は驚いた。

それは、あまりに都合が良かった。何ひとつ失わずに、痛みだけが消える。竜として生き、火を継ぎ、あの塔でまた誰かの匂いを嗅いで、また同じことをする。


「それは、彼女の役に立ちません」と彼は言った。


「ほう」

「私が忘れても、彼女は逃げたままです。名を変えたままです。振り返らないままです」

「私は、彼女にもう一度会いたい」

「番としてではなく」

「人間として、彼女の前に立つ」

「彼女が、私を初めて見るように」

「私を、彼女の選択肢のひとつに戻したい」


「選択肢に戻ったところで、選ばれぬかもしれぬぞ」

「選ばれないかもしれません」

「無駄になるぞ」

「無駄になります」


ヴェルグリムは、そこで少し笑った。


「彼女に選ばれないという結末がありうる、ということが、私には嬉しいのです」

「番には、それがありませんでした」


長老は深い、深いため息を吐いた。

灰が舞い、火の池の面が曇った。


「お前は、ようやく愛を知ったな」

「番の本能を、超えたな」


「分かった。望み通り、人間にしてやろう」


   *


「棄てるものを、言え」


「すべての魔力を、棄てます」

「鱗を、棄てます」

「爪を、棄てます」

「火を、棄てます」

「長命を、棄てます」

「竜の記憶を、棄てます」


「戻らぬぞ」

「分かっています」

「お前は、自分の名も忘れる。彼女に出会った記憶も、彼女を傷つけた記憶も、彼女に薬を盛られた記憶も、すべて消える」

「分かっています」

「彼女に出会っても、お前は彼女を知らぬ」


「そのほうが、いい」と、ヴェルグリムは言った。

「私の中に残った、私の記憶は、彼女を追い詰めます。私は、私を私のまま彼女の前に置けません」

「私は、私を棄てたい」


「ただし、ひとつだけ、お前に、残るものが、ある」

「これだけは、削れぬ」


長老は、片目で、彼の胸のあたりを見た。


「竜の魂には、核(かく)がある。記憶は表に書かれるが、核に刻まれたものは、体を変えても削れぬ。そこに残るのは、ふたつだ」


「ひとつは、お前が彼女を傷つけた後悔だ」

「名前は忘れる。顔も忘れる」

「なのに、お前は夢の中で誰かを傷つけたと、泣くだろう」

「その夢を、お前は人間として生涯、見続けるだろう」


「もうひとつは」


長老は少し言い淀んだ。千年生きた竜が、言い淀んだ。


「お前が、あの女と過ごした時間の断片だ」

「意味を失った断片だけが、残る」

「何の場面だったのか、誰といたのか、それは分からぬ。ただ、形だけが残る」

「湯気の立つもの。手の形。声の高さ。そういう、意味を剥がされた欠片が、お前の中で理由もなく痛む」

「お前は生涯、その痛みに名前をつけられぬ」


「それでも、よいか」


ヴェルグリムは目を閉じた。


彼が最後に思い出したのは、塔の厨房の床だった。

彼女が湯を沸かしている音。二つの杯。片方は空。苦い。そうです。なぜ、こんなものを毎日飲む。苦いからです。


それだけを、彼は頭の中でもう一度なぞった。

なぞりおえて、彼は目を開いた。


溶けた金属の色をしていた瞳は、すでに冷えて、人間の茶色に変わり始めていた。


「それで、いい」

「私は、その夢を抱いて生きる」

「それが、私の贖罪です」


   *


火が、彼の内側から、抜けていった。


鱗が剥がれ、灰になり、火の池に落ちた。角が砕けた。翼が縮み、膜が乾き、肩の中へ吸い込まれるように消えた。爪が黒さを失った。指の関節が一節消えた。指は、人間の指の長さになった。ただ、第二関節が、ほんのわずかに後ろへ反るその形だけが残った。


背が縮んだ。喉が焼けるように熱くなり、それきり二度と熱くならなくなった。


最後に消えたのは、深紅の髪の色だった。それは根元から、ゆっくりと、ありふれた暗い茶色に変わった。


火山の底で、火竜の王子は、燃え尽きた。


そこに残ったのは、見知らぬ人間の男、ひとりだった。


男は裸のまま、火の池の縁に倒れていた。

何も覚えていなかった。自分の名前も、なぜここにいるのかも。


ただ、眠りながら泣いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。