第二十一話 ヴェルグリムの咆哮
ヴェルグリムが目を覚ましたのは、それから三日後だった。
塔の最上階。檻は開いていた。
薬研も、本も、紅茶のカップも、揃って置かれていた。杯はふたつとも伏せてあった。洗ってから伏せた者の手つきで、きれいに。
だが、彼女がいない。
匂いがしない。
竜は自分の鼻を両の掌で覆った。何度も。壊れたのかもしれない。
番の匂いを見失ったことが、彼の人生でなかった。彼女がどこに居ても、彼の鼻は彼女を捉えていた。それが消えていた。
彼は塔の階段を駆け下り、厨房の床に膝をついて、床板の匂いを嗅いだ。何もしない。彼女が三月毎晩そこに立っていた場所だった。
獣人ではない女中を捕まえて、匂うかと訊いた。女中は震えて、何も分かりませんと答えた。
彼は自分の掌を嗅いだ。彼女の手首を掴んだことのある手だ。
何もしない。
捜索隊が出された。
獣国のすべての銀狼が、すべての黒豹が、すべての鷲獣人が、彼女を探した。
誰も見つけられなかった。
彼らは彼女の匂いを知らなかった。
ヴェルグリムだけが、彼女の匂いを知っていた。
そして、ヴェルグリムはもう彼女の匂いを感じなかった。
*
二月目、彼は机に置かれていた彼女の最後の置き手紙を見つけた。
それがすべてを教えた。
人間の文字だった。彼は人間の文字を読めなかった。読めるようになるまで、彼は十九日かかった。書庫の蛇族の男に頭を下げて、一字ずつ教わった。
火竜の王子が字を習った。
その十九日の間、彼は一度もそれを誰かに読ませようとしなかった。
『ヴェルグリム様
あなたは、私を愛したと思っているでしょう。
あなたが私を愛したのは、本当です。
私があなたを愛さなかったのも、本当です。
両方が本当です。
本当のことをふたつ並べると、ときどき人は別れなければなりません。
あなたが誰も傷つけずに私を愛してくれていたら、私はあなたを愛したかもしれません。
たぶん、それはもう起きない未来です。
お元気で。
アイリス』
彼はそれを三度読んだ。
三度目に、「傷つけずに」という一語の前で、指が止まった。
彼はその言葉の意味を知っていた。
腱を切られた仕立屋。毒を握った母親。婚約者の唇が血を噴くまで噛み切られた、あの広場。
そのすべてを、彼は「番探しの宴」と呼んでいた。彼にとってそれは、五十年に一度の正しい儀礼だった。
正しい儀礼の中で、彼女は逃げる方法を探していた。
それを彼は「嫌われている」と呼んでいた。
そうではなかった。彼女は加害の中にいたのだ。彼が加害だったのだ。
ヴェルグリムは塔の最上階で、三日間咆哮した。
火を吐かなかった。
火を吐けば、彼女が居た部屋が燃える。
燃やせなかった。
燃やせない、ということが、彼が初めて自分のために選んだ選択だった。
*
三月目の朝、匂いが戻った。
眠りから覚めた瞬間、彼は跳ね起きていた。
枕に彼女の匂いがあった。三月ぶんだけ古い、乾いた、消えかけの匂い。それでも、彼にははっきりと分かった。
薬が切れたのだ。
鼻が戻った。
本能が戻った。
彼は窓を開けた。
風が北から吹いていた。人間の国のほうから。
彼はその中に匂いを探した。
見つかった。
呆気ないほど、すぐに。世界のどこにいようと、彼の鼻は彼女を捉える。海を越えていても、何年経っていても。それが番というものだった。北の、海に近い、湿った空気の、どこか。
翼を広げれば、届く。
一日で着く。
扉を破れば、彼女はそこにいる。
連れて帰れる。今度は逃がさない。今度こそ、鎖を、匂いのない部屋を、もっと高い塔を ──
ヴェルグリムは窓枠を握った。
石が砕けた。
彼はそのまま長いこと動かなかった。
翼は広げられていた。
広げたまま、彼は一歩も飛ばなかった。
風が変わり、匂いが薄れ、また戻り、また薄れた。
朝が昼になり、昼が夜になった。
彼は窓枠に手をかけたまま、そこに立っていた。
彼女は逃げたのだ。
私から。
私が追えば、彼女はまた逃げなければならない。
私が追える限り、彼女は生涯逃げ続けなければならない。
『本当のことをふたつ並べると、ときどき人は別れなければなりません』
追える。
追わない。
その二つを、彼は別々のものとして理解した。
夜明けに、彼は翼を畳んだ。
飛べる翼を持った生き物が、飛ばないことを選ぶ。それは、竜の千年の歴史に一行も書かれていない選択だった。本能にそれを説明する言葉はなかった。
彼は塔を出た。城を出た。国を出た。
王城の者たちは、王子が捜索に出たのだと思った。
彼が向かったのは、北ではなかった。
南の火山だった。




