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第二十一話 知らない男の顔をした、知っている匂い

# 第二十一話 知らない男の顔をした、知っている匂い


患者は、三日後に、目を覚ました。


「お名前は」とアイリスは尋ねた。

「分かりません」と男は答えた。

「三年前、海岸で、目覚めた、と、宿の人は言うのですが ── それより前を、ぼくは、覚えていない」

「お住まいは」

「港の南の、宿屋の、屋根裏」

「ご家族は」

「いない、と、思います」

「ご職業は」

「宿の、下働き」


アイリスは、彼の脈を、取りながら、問診を、続けた。

彼の手は、節が、太かった。爪は、人間のもの。だが、関節の、形が、わずかに、人間と、違っていた。普通の医師は、気づかない、わずかな差。

火竜族の、骨格の、名残(なごり)

記憶を、失っても、骨は、残る。


アイリスの、頭の中で、医師としての、診断と、女としての、確信が、同時に、走った。


これは、ヴェルグリムだ。

だが、ヴェルグリムでは、ない。


「お名前を、お決めになる、お気持ちは、ありますか」と彼女は、訊いた。

「役所で、便宜上の、名前を、登録、できます」

「ぼくに、名前は、いらない、と、思っていました」

「いらないと、生きるのに、不便です」

「ですね」


男は、しばらく、考えてから、言った。


「先生に、決めて、もらえませんか」

「え」

「先生の声を、聞いた瞬間、ぼくは、ぼくに、名前が、必要なんだと、初めて、思いました」

「だから、先生に、名前を、もらいたい」


アイリスは、しばらく、何も、言えなかった。


「考えさせて、ください」と、彼女は、言った。

男は、頷いた。


その夜、当直室で、アイリスは、ひとり、考えた。


彼は、ヴェルグリムでは、ない。

ヴェルグリムは、もう、いない。

ヴェルグリムは、自分を、棄てた。

自分の力も、爪も、火も、記憶も、棄てて、人間に、なった。

それは ── 私の、ためだ。

彼は、私を、追わない、ために、自分を、消した。

彼は、私の前に、ただの、人間として、立つために、すべてを、失った。

それを、長老の祠の、古文書に、私は、見ていた。

獣国を逃げる前、私は、その文書を、読んでいた。

読んでも、信じなかった。

そんなことが、起きるはずが、ない、と、思っていた。


起きた。


アイリスは、初めて、自分の、計算違いを、認めた。

医師として、彼女は、その夜、初めて、誤診を、認めた。


私は、彼を、愛さない、と、思っていた。

それは、誤診だった。

私は、彼を、愛していた、可能性が、ある。

ただ、彼の、本能と、私の、自由が、両立しなかった、それだけ、だった。

彼が、本能を、棄てた、いま ── 私たちには、もう、両立、できない理由は、ない。


朝、彼女は、彼の病室に、戻った。


「お名前、決めました」

「はい」

「『ヴェル』では、いかがですか」

「ヴェル」


男は、その音を、口の中で、何度か、転がした。


「いい、響きです」

「気に入りました」

「先生、ありがとうございます」


彼は、笑った。

昔、ヴェルグリムが、塔の最上階で、紅茶を飲んだときと、同じ笑顔だった。

笑顔は、骨格と同じく、棄てられないものだった。


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