第二十話 逃亡の夜
薬が効くまで半日かかると、アイリスは見積もっていた。
夜明けの前、ヴェルグリムが深く眠った。
番の本能が消えると、彼の体は急速にただの疲れた竜人に戻った。
彼は、ここ何年もまともに眠っていなかった。番を見つけてから、ずっと警戒していた。
本能が消えた瞬間、彼は十年分の眠りに落ちた。
アイリスは彼の脈を取った。
医師の癖だった。強く、遅い。健康な竜人の脈だ。眠っている彼の顔は、彼女が一度も見たことのない顔をしていた。何も警戒していない顔だった。
彼女は手を離した。用意していた男物の旅装に着替え、髪を襟の中に押し込み、塔の階段を降りた。
*
薬は六本、作れるだけの量しかなかった。
一本は、ヴェルグリムの杯に落とした。
残りを持って、彼女は獣国を横切った。
リアナのところへは行かなかった。
リアナはコンラートの隣で、自分の選択で生きると決めていた。彼女は待たれることを選び、毛布を自分から敷いた。医師が処方していい薬など、そこには何もない。
マリエルには、もう届けられなかった。
その一本は、鞄の底に残った。誰にも使われない薬というものが、この世にはある。
テオの居室の窓辺に、彼女は薬を置いた。手紙を添えた。
『あなたがもう一度走りたいなら、これを使って。あなたがニッサの隣に居ることを選ぶなら、捨てて』
窓の内側では、明かりがひとつ灯っていた。テオはまだ縫っていた。黒豹族の女の服を、走れない足で、ひと針ずつ。
アイリスは、彼が起きるのを待たなかった。
薬が彼の手に渡ったかどうか。彼がそれを飲んだのか、捨てたのか。アイリスは知らない。生涯、知らないままだった。
ミオには薬を見せた。
ミオは首を横に振った。
そして、紙に書いた。
『私は、ここで、書く人になります』
『あの人は、私を、書く人として、見てくれるから』
『先生、ありがとう』
『先生こそ、逃げて』
アイリスは、彼女の書く手を握った。
ミオの手は、紙のインクでいつも汚れていた。
それは、アイリスが知る限り、世界でいちばん美しい手だった。
エドリックには、薬を見せなかった。
彼はヴォーラの隣で静かに剣を錆びさせ、畑を耕し始めていた。夜明け前の畑に、彼はもう出ていた。灰熊族の女の背丈に合わせて作り直された、大きすぎる鍬を持って。
アイリスは、彼の畑の脇を通り過ぎた。
彼は何も言わなかった。
彼はただ、彼女に向かって深く頭を下げた。
彼が何を分かったのかは、アイリスには分からない。
ただ、彼の沈黙は見送りに似ていた。
サラフのところには、行かなかった。
彼は毎朝、青い花を墓に供えていた。獣国の片隅の、人間式の墓がひとつだけ。
彼の獣の本能を消す必要は、もうなかった。
彼の本能は、もう咆哮していなかった。
*
鞄には、薬がまだ四本、残っていた。
五人に届けるつもりで、彼女は塔を降りた。
実際に誰かの手に渡ったのは、テオの窓辺の一本きりだった。
そのことを、アイリスは国境の森を歩きながら考えた。
医師は薬を作る。誰に効くかを計算し、必要な量を用意する。だが、飲むか飲まないかを決めるのは、いつも患者だ。
彼女は五人分の鎖を断とうとして、五人がそれぞれ、自分の鎖を自分で選んでいたことを知った。
彼女だけが、断って、逃げた。
国境の森で、アイリスは獣国を出た。
塔の灯りは、まだ見える高さにあった。
だが、彼女は振り返らなかった。
医師の判断は、いつも最後まで振り返らない。




