第十九話 番解(ほど)きの薬
完成の夜、アイリスは初めて、自分の手が震えているのに気づいた。
小瓶の中で、液体は無色だった。青い花の色も、火山の匂いも、そこには残っていない。濾して、煮詰めて、また濾した。医学とはそういうものだ。何がどこから来たかを最後には忘れさせる。
これを、ヴェルグリムに飲ませる。
飲ませた瞬間、彼の中の彼女への執着は消える。
彼は ── 彼女を忘れる。
医師として、それは勝利だった。
ひとりの女として、それは ── 何だろう。
アイリスは、二十七年生きてきて初めて、自分の感情を分析できなかった。
「私は、彼を愛していない」
彼女は、声に出して、確認した。
「彼が私を愛していると信じている、それは彼の本能だ。本能は愛ではない」
「だから、私はこれを飲ませる」
「これは、私の勝利だ」
それでも、手は震えていた。
震えの原因を、彼女は医師らしく列挙してみた。睡眠不足。低血糖。冬の冷え。どれも当てはまる。どれも本当ではない。
本当のことは、机の端に置いてある。
乾いた土のついた、細い茎。花はもう萎れて、青が抜けかけている。彼が六日かけて翼を裂いて持ち帰ったものの、残り。
私はあれを煎じた。
私を彼から消すために。
彼が持ってきたもので、彼から私を消す。
「これは、卑怯です」と彼女は誰にともなく言った。
「それでも、やります」
やらなければどうなるかを、彼女は知っていた。
来年の私は、何を作るだろう。
何も作らないだろう。絹に埋もれて、宝石を数えて、毎晩苦い茶を淹れて、それを世界のすべてだと思うようになるだろう。彼が優しくなればなるほど、そうなる。
檻というものは、鍵で閉じない。
時間で閉じる。
彼女は小瓶の栓をきつく締めた。
*
その夜も、彼は日が落ちてから塔に上がってきた。
杯をふたつ持って。片方は空のまま。三月、一度も欠かさなかった習慣だった。翼の傷はまだ塞がりきらず、彼は右肩を庇うようにして階段を上がってきた。
アイリスは湯を沸かした。
茶葉を量る手が、少しだけ狂った。いつもより濃く出た。
ヴェルグリムは、嬉しそうな顔をしていた。
彼にとっては、これが世界でたったひとつの、彼女と「夫婦らしい」時間だった。
彼が窓のほうを向いた、その数秒に、アイリスは彼の杯に「番解きの薬」を落とした。
一滴。
無味無色。
杯の底で、それは湯気の中に消えた。
彼は、気づかなかった。
彼は杯を取り、いつものようにひと口飲んで、いつものように顔をしかめた。
「苦い」
「そうです」
「今日は、いつもより苦い」
「……そうですか」
「なぜ、こんなものを毎日飲む」
「苦いからです」
彼は理解できないという顔をした。
それから、飲み干した。
三月の間、彼は一度もこの味を好きにならなかった。
一度も、残さなかった。
「どうした、アイリス」
彼は杯を置いてから、彼女の顔を見た。
「お前、泣いているのか」
頬が濡れていた。拭ってから、それが自分の涙だと分かった。
指で拭った。拭っても、また濡れた。医師の手だ。震えないように訓練された手だ。その手が、いま自分の顔を拭うのに失敗している。
なぜ泣くのか、彼女は自分に説明を試みた。
罪悪感ではない。私は正しいことをしている。この男は六人を攫った側の男で、私は檻に入れられた側の人間で、逃げるのは私の権利だ。それは一分の隙もなく正しい。
正しいことをしている人間は、泣かない、はずだった。
私は、いま、この人から私を盗んでいる。
彼が六日かけて持ってきたものを使って。
彼が毎晩、顔をしかめながら飲み干す、この杯を使って。
彼が私の言うことなら何でも信じる、その一点だけを使って。
彼の愛は加害だった。それは本当だ。
それでも、いま私がしていることは、彼の愛より、たぶんずっと冷たい。
両方が本当だった。
「いいえ」と彼女は答えた。
「これは、医師としての汗です」
ヴェルグリムは、それを、信じた。
「そうか」と彼は言った。
「無理をするな」
「火を焚こう。寒いだろう」
彼は立ち上がって、暖炉に薪をくべた。焼けた鱗の下がまだ痛むはずの右腕で。彼女の背中が冷えないように、風の来る側に自分の体を置いて。
そして、火が点くのを少し得意そうに、彼女に見せた。
彼は、彼女の言うことをいつも信じてきた。
彼は、彼女の言うことを信じる、という選択しかできない男だった。
それが、彼の不器用な愛の、すべてだった。
アイリスは、空になった杯を洗った。
洗って、伏せた。
明日から、この杯はもう二つ要らない。




