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番を棄てて逃げた医師ですが、すべてを失った元・火竜王子が病院に運ばれてきました  作者: 鷹居鈴野


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第十八話 魂震草

薬は、あと一歩のところで止まっていた。


塔の書庫から出てきた乾いた標本は、指で挟むと粉になった。魂震草。番の本能に触れる、ただひとつの草。文献にはこう書いてある ── 『枯れたるものは、ただの草なり』。


死んだ草では、鎖は断てない。生きたまま、根ごと。それでなければ意味がない。


「どこに生えるんですか、これは」


アイリスは独り言のつもりで言った。夜だった。杯はふたつ並んでいて、片方はもう空だった。ヴェルグリムはいつものように床に座り、いつものように顔をしかめて紅茶を飲んでいた。


「火山だ」と彼は答えた。


彼女は顔を上げなかった。羽根ペンの先を紙に置いたまま、こう続けた。


「火口の稜線。硫黄の熱で雪が溶けたところにだけ、三日だけ咲く。……つまり、手に入らない、ということです」


それだけだった。

彼女は本の頁をめくった。話は終わったと思っていた。


翌朝、彼はいなかった。


   *


二日、彼は帰らなかった。

三日、帰らなかった。


四日目、アイリスは自分が階段の下を見ていることに気づいて、羽根ペンを机に叩きつけた。私は待っていない。私は薬を待っている。手が止まっているのは、材料がないからだ。それだけだ。


夜、杯をふたつ並べた。片方は空のまま。


六日目の明け方、塔の外の石畳に、何かが落ちる音がした。


   *


アイリスが降りていくと、彼は中庭に倒れていた。


翼が折れていた。竜の翼は膜だ。それが左右とも裂けて、風にひらひらと鳴っていた。深紅の鱗は、腹から胸にかけて黒く焼け、ところどころ剥がれて、その下の肉が見えていた。硫黄の匂い。焦げた角。まつげが片方だけ無い。


火竜が、火傷をしていた。


彼はゆっくりと上体を起こした。起こしきれずに、片肘をついた。

そして、握りしめていた右手を彼女のほうへ突き出した。


拳がひらいた。


土のついた根。細い茎。震えるような、薄い青の花。生きたまま、根ごと。


「魂震草だ」


声が掠れていた。喉まで焼けていた。


「三日しか、咲かないと言った。だから、三日で探した。稜線を端から端まで飛んだ」


彼女は動けなかった。


「四回落ちた」と彼は言った。それから少し笑った。「四回とも飛んだ」


彼は差し出した手を引かなかった。獣が獲物を主人の足元に置くときの、あの姿勢だった。褒められるのを待っているのでもなく、ただ渡し終わるのを待っている。


「なぜ」と彼女は言った。声が出ていなかった。「なぜ、こんな」


ヴェルグリムは、不思議そうな顔をした。

彼にとっては、答えるまでもないことだったのだろう。


「お前が欲しいと言ったから」


   *


アイリスは、それを受け取った。


受け取った瞬間、指が青い花に触れた。生きていた。冷たかった。火山の稜線で咲いていたものが、彼女の掌の中にあった。


これで、薬は完成する。


彼女はそれを知っていた。

これが最後の一味だと知っていた。

これを煎じて、濾して、一滴にして、この男の紅茶に落とすのだと知っていた。

そうすれば、この男の中から彼女という存在は消える。


その材料を、この男が翼を裂いて、鱗を焼いて、六日かけて火山から持ち帰った。


「……治療します」と彼女は言った。


「治療しなくていい」

「治療します」

「これは、痛くない」

「痛いかどうかを決めるのは、患者じゃありません」


彼女は彼を座らせ、焼けた鱗の下を洗い、翼の膜を縫った。針を通すたびに、彼の背中の筋肉が動いた。声は出さなかった。


縫いながら、彼女は一度だけ、手を止めた。


これは、加害者だ。

テオの腱を切らせ、マリエルを死なせ、リアナから婚約者を奪った側の男だ。

私を檻に入れた男だ。

その事実は、ひとつも消えていない。


そして、その男が、私のために火山に登った。


その事実も、消えない。


両方が、本当だった。


「先生」と彼が言った。彼女がそう呼ばれるのは初めてだった。

「まだ、要るか」

「……何が」

「草だ。まだ要るなら、また行く」


アイリスは針を持ったまま、しばらく何も言えなかった。


「もう、要りません」


彼女は言った。


「ひとつで、足ります」

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