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番を棄てて逃げた医師ですが、すべてを失った元・火竜王子が病院に運ばれてきました  作者: 鷹居鈴野


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第十七話 アイリスの研究室

アイリスの檻には、医療器具が揃っていた。


そのことが、ヴェルグリムの最大の油断だった。


彼は番のために檻を用意した。番を医師のままにしておくために、道具も入れた。

檻に鍵をかける男が、その檻の中に鍵を開ける道具を並べてしまったのだ。


   *


アイリスは毎日、ヴェルグリムが運ばせる絹や宝石の中から、必要な薬草をひとつふたつ抜き取った。

彼女が頼んだものは、彼は何でも持ってきた。鎮痛草、解熱草、痺れ薬、催眠薬。そして ── 番(つがい)の感覚に作用すると古い文献にだけ書かれている、希少な「魂震草(こんしんそう)」。それだけは、塔の書庫に眠っていた乾いた標本が一束、出てきただけだった。


「魂震草」は、獣人の番の本能を一時的に鈍らせると書かれていた。

鈍らせるだけだ。消すことは、誰にもできない。


アイリスは、それを消す薬を作ろうとした。


医師としての知識のすべてを使った。

診察に来た獣人の患者から、こっそり毛と、爪と、血を採取した。


   *


彼女は、ヴェルグリムの城の中で密かに診察所を開いていた。


獣人の下級兵士たちが、塔に上がってきた。獣国の医療は戦傷には強いが、内臓と心の病には弱い。腹の痛みが引かない者。眠れない者。子が生まれない者。彼らは階段を這うようにして上がってきて、人間の医師にこっそり診てもらった。

診察と引き換えに、彼女は彼らから、サンプルをもらった。


ヴェルグリムは最初の月に、四人を追い払った。

だが、アイリスは言った。


「彼らは私の患者です。追い払うなら、私はあなたの番じゃなく、あなたの囚人だということです。囚人の知識を、自分の国の兵士に使わせたくないんですか」


ヴェルグリムは唸った。

唸ったが、追い払うのをやめた。


やめたあとが、彼にとっては地獄だった。


診察のあいだ、彼は診察室の外に立っていた。

三時間でも、四時間でも、扉の前の石床に立っていた。中から男の声がする。番の声がそれに答える。彼が一日じゅう欲しくて、ついに一度ももらえなかった、あの穏やかな返事の声で。


爪が石を削っていた。

彼は、その兵士たちの名を全員覚えた。顔も匂いも覚えた。

そして、一人も罰しなかった。

罰さないということが、あの男に生涯でただ一度できた我慢だった。


番のためなら、自軍を弱らせることさえ、彼はいとわなかった。

番のためなら、自分を弱らせることも、彼はいとわなかった。

その二つが同じ意味だと、彼はまだ気づいていなかった。


   *


ある夜、彼女は竜族の書庫の話をした。


「番の生理について、竜族の記録が読みたいのです」

「あれは禁書だ」

「では、結構です」

「── 持ってこさせる」


彼は言った。


「お前が、欲しがるなら」


三日後、書物が届いた。石の箱に入って、二人がかりで運ばれてきた。竜族の禁書庫の書物が塔の外に出たのは、四百年ぶりだった。


その中に、一冊、薄いものが混じっていた。

番とは何の関係もない写しだった。


『竜性(りゅうせい)譲渡ノ契約』


火山の底の祠(ほこら)。長老。差し出すもの ── 魔力。鱗。爪。火。長い命。そして、竜としての記憶。

差し出した竜は、人間になる。二度と竜には戻れない。

過去に、この契約を結んだ竜は、一頭もいない。


アイリスは、それを最後まで読んだ。

読んで、閉じた。


「馬鹿げています」

「なぜだ」

「自分を全部棄てて、何が残るんですか」


ヴェルグリムは、しばらく考えて、答えられなかった。


「知らん」と彼は言った。「誰もやった者がいない」

「当然です。誰も、そんなことはしません」


アイリスは、その本を書架の三段目の、いちばん端に戻した。

戻す前に、余白へ、一行だけ書きつけた。


『馬鹿げている。確かめようもない。竜が竜であることをやめる理由なんて、あるはずがない』


そして、番の生理に関する記録のほうを、引き寄せた。


── 三年後、彼女はこの夜のことを、何度も思い出すことになる。

馬鹿げていると言って本を閉じた、自分の手のことを。


   *


六か月で、原型ができた。

一年で、獣人の血で理論上の効果まで確認した。


「番解(ほど)きの薬」── 獣人側の、本能の鎖を、断つ薬。


飲むのは、獣人だ。

人間側には、もともと鎖がない。人間が飲んでも、何も起きない。水と同じだ。


だから、この薬を持つ人間には使い方がひとつしかない。

自分の獣人に、自分の手で飲ませること。

相手の中から自分という存在を、自分で消させること。


それが、この薬の唯一の使い方だった。

アイリスは、その一文を、記録の最後に書いて、羽根ペンを置いた。


効果は、永久ではない。三月(みつき)、保(も)つ。


三月あれば、逃げ切れる。

アイリスはそう計算した。


あとは、最後の一味(ひとあじ)だけだった。

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