第十六話 逃亡の夜
薬が効くまで、半日かかると、アイリスは見積もっていた。
夜明けの前、ヴェルグリムが、深く、眠った。
番の本能が、消えると、彼の体は、急速に、ただの、疲れた竜人に、戻った。
彼は、ここ何年も、まともに眠っていなかった。
番を見つけてから、ずっと、警戒していた。
本能が消えた瞬間、彼は、十年分の、眠りに、落ちた。
アイリスは、用意していた、男物の旅装に、着替えた。
塔の階段を、降りた。
途中で、彼女は、五人の人間に、薬を、届ける手はずを、整えていた。
リアナには、届けなかった。リアナは、コンラートの隣で、自分の選択で、生きると、決めていた。
マリエルには、もう、届けられなかった。
テオには、彼の居室の窓辺に、薬を、置いた。手紙を添えた。
『あなたが、もう一度、走りたいなら、これを使って。あなたが、ニッサの隣に居ることを選ぶなら、捨てて』
テオが、それを、どうしたかは、アイリスは、知らない。
エドリックには、薬を、見せなかった。
彼は、ヴォーラの隣で、静かに、剣を錆びさせ、畑を、耕し始めていた。
アイリスは、彼の畑の脇を、通り過ぎた。
彼は、何も、言わなかった。
彼は、ただ、彼女に、向かって、深く、頭を、下げた。
彼が、何を分かったのかは、アイリスには、分からない。
ただ、彼の沈黙は、見送りに、似ていた。
ミオには、薬を、見せた。ミオは、首を、横に振った。
そして、彼女は、紙に、書いた。
『私は、ここで、書く人になります』
『あの人は、私を、書く人として、見てくれるから』
『先生、ありがとう』
『先生こそ、逃げて』
アイリスは、彼女の、書く手を、握った。
ミオの手は、紙のインクで、いつも、汚れていた。
それは、アイリスが知る限り、世界で、いちばん、美しい手だった。
サラフのところには、行かなかった。
彼は、毎朝、青い花を、墓に、供えていた。
彼の獣の本能を、消す必要は、もう、なかった。
彼の本能は、もう、咆哮していなかった。
国境の森で、アイリスは、獣国を出た。
振り返らなかった。
振り返れば、塔の灯りが、見えた、はずだった。
だが、彼女は、振り返らなかった。
医師の判断は、いつも、最後まで、振り返らない。




