第十六話 紅茶の始まり
塔の最上階に、冬が来た。
その夜、アイリスが診察記録を書いていると、階段の下で何かが割れる音がした。
それから、低い唸り声。獣が喉の奥で立てるあの音だ。
彼女はペン先のインクを、布で拭った。
またか。この男は不機嫌になるたび、家具を壊す。三日前は椅子だった。
階段を降りると、ヴェルグリムが厨房の床に片膝をついていた。
足元に湯の湯気。割れた陶器。ひっくり返った鉄瓶。
そして彼は、自分の右手を左手で握りしめていた。
「……何をしているんですか」
彼は答えなかった。答えないまま、握った手を背中に隠した。
「見せてください」
「必要ない」
「見せてください」
竜は火を吐く生き物だ。千度の火を喉から吐く。
その男が、湯で火傷をしていた。
アイリスは、自分でも気づかないうちに、彼の手首を掴んでいた。
医師の反射だった。理屈より先に、手が動いた。
掌が赤い。指の付け根まで、皮膚が上がっている。
第二度熱傷。竜の鱗があれば何ということもない傷が、鱗の薄い掌にだけ、きれいに残っていた。
「熱いものを、握ったんですね」
「……鉄瓶の取っ手があると思った」
「ありませんでした」
「ああ」
アイリスは彼の手を水桶に沈めた。彼は抵抗しなかった。
獣人の体温は高い。水の中で、彼の手だけが、ひどく熱かった。
「なぜ、湯を沸かしていたんですか」
長い沈黙があった。
それから、彼は床に落ちた葉を見た。乾いた黒い葉。人間の国の茶葉だった。
「お前が飲んでいた」
「……は?」
「病院で。私が初めてお前を見た日。お前の机に、それがあった」
「私はまだ、お前の何ひとつ知らない」
「だから、同じものを飲もうと思った」
アイリスは彼の手を水に沈めたまま、動けなくなった。
この男は、人間を五人攫った民族の王子だ。
テオの腱を切らせ、マリエルを死なせ、リアナの婚約者から彼女を奪った側の男だ。
彼女はこの男を憎んでいた。憎むことを、自分に義務づけていた。
その男が、火傷をしていた。
彼女の茶を淹れようとして。
「……座ってください」
彼女は言った。声が、自分でも驚くほど低く出た。
「お湯は私が沸かします。あなたは、そこで手を冷やしていてください」
彼は座った。
床に大きな体を、器用に折りたたむようにして。竜の王子が、厨房の床に。
アイリスは茶葉を拾い、湯を沸かし、二つの杯に注いだ。
片方を彼に渡した。彼は火傷していないほうの手で、それを受け取った。
ひと口飲んで、彼は顔をしかめた。
「苦い」
「そうです」
「なぜ、こんなものを毎日飲む」
「苦いからです」
彼は理解できないという顔をした。
それから、もうひと口飲んだ。まだ顔をしかめた。
そして、飲み干した。
*
その日から、それは習慣になった。
彼は毎晩、日が落ちると塔を上がってきた。
杯を二つ持って。片方は空のまま。
アイリスが湯を沸かし、茶を淹れ、二人は何も話さずにそれを飲んだ。
彼は最後まで、その味を好きにならなかった。
毎晩、顔をしかめた。毎晩、飲み干した。
それが、彼にとっては、世界でただひとつの「夫婦らしい」時間だった。
アイリスはそのことに気づいていた。
気づいていて、なお彼を捨てるための薬を、その同じ杯に落とすことになる。
彼女は医師だった。
医師は最後まで振り返らない。
──そのはずだった。




