第十話 竜が、患者になる夜
三日、彼は来なかった。
壁を砕く音も、しなかった。
静けさを数えている自分に、アイリスは苛立った。数える必要のないことだった。
四日目の夜、階段の下で、重いものが石にぶつかる音がした。
彼女は羽根ペンを置かなかった。
置かないまま、書き続けた。三行書いた。四行目で、ペン先が止まった。
血の匂いが鼻の奥を突いた。人間の血より濃い。
医師の鼻は、憎悪より速い。
アイリスは立ち上がり、階段を降りた。
*
ヴェルグリムは、踊り場の壁にもたれて座っていた。
左の肩から脇腹にかけて、鱗が数枚剥がれている。剥がれた縁から、黒に近い赤が滲んでいた。両の拳は、指の骨が見えるほど裂けていた。そちらは壁のせいだ。
「国境で、人間側の傭兵が越えてきた」彼は前を見たまま言った。「片づけた」
「何人」
「知らん」
「あなたが殺した数を、訊いています」
「知らん」
彼女は少しのあいだ、動かなかった。
それから、彼の横に膝をついた。
「上着を脱いでください」
竜は、自分が命じられたことをすぐには理解しない顔をした。
だが、脱いだ。
*
灯りを近づけて、アイリスは初めてその体を正面から見た。
古傷だらけだった。
左の脇腹に、鱗を焼き潰した痕。竜の火は竜には効かない ── ということは、これは竜の火ではない。人間の攻城兵器の油だ。十年は経っている。
右の鎖骨の上に、深い刺し傷。角度からして、上から。まだ体が小さいころに、大人の背丈の相手から突かれた傷だ。
背中には、鞭の痕が幾筋も。
そして両の肩甲骨のあいだに、四角い、平らな痕があった。
「これは」
「烙印だ」彼は面倒そうに言った。「王家の。三つのとき、押す」
アイリスは、その四角い痕から目を離せなかった。
彼女は、この男の体を加害者の体だと思っていた。
そこにあったのは、使い潰された体だった。
十七の傷のうち、十六までが正面から受けた傷だった。逃げたことが、一度もない。逃げることを許されたことが、一度もない。
「鎮痛草を噛んでください」
「不要だ」
「噛んでください。私が縫いにくい」
彼は噛んだ。素直に噛んだ。そのことが、なぜかいちばん腹が立った。
*
針を通しながら、アイリスは職業上の問いを口にした。
毎日、病院で百回は口にしてきた問いだった。
「痛みますか」
竜の体が動いた。
縫っている最中に動かれると、糸が引きつる。彼女は舌打ちをしかけて、顔を上げ ── そして、やめた。
ヴェルグリムは彼女を見ていた。
金の目が大きく、開いていた。壁を砕いていた男の目では、なかった。
「もう一度、言え」
「動かないでください」
「もう一度、言え」
アイリスは針を止めた。
「……痛みますか、と訊きました」
彼はしばらく黙っていた。
それから、天井を見上げてひどく静かに言った。
「誰かに、痛いか、と訊かれたのは初めてだ」
*
アイリスは縫い続けた。
手は止めなかった。医師の手は、そういうふうにできている。
だが、彼女の中で何かが、音を立てずにずれた。
「勘違いをしないでください」
最後の糸を切りながら、彼女は言った。声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「痛むかと訊いたのは、あなたのためではありません。痛みは、診断のための情報です。それ以上の意味は、ありません」
「うむ」
「私は、あなたを憎んでいます」
「うむ」
「明日も、憎んでいます」
「うむ」
彼は頷くたびに、少しだけ嬉しそうだった。
返事をもらえた、というだけで。
*
その夜、彼女は檻に戻り、机に向かった。
血の付いた布を捨てなかった。
油紙に包み、書架の三段目の医学書の背表紙の裏に、押し込んだ。
竜の血だ。検体としては、これ以上のものはない。
計算し尽くした手つきだった。
それから、彼女は羽根ペンを取り、その夜の診察記録を書こうとして ── 一行も、書けなかった。
灯りが尽きるまで、白い紙を見ていた。
憎しみは、まだそこにあった。
罅というものは、割れるまで、音を立てない。




