音のとおりになる
誰も来ないでくれ、と、私は朝から祈っていた。
誰かが来れば、当たったことになる。昨夜の、あの玄関の音が。二人分の足音が。誰も来なければ、音ははじめて外れる。ただの音に、戻ってくれる。
午前のあいだ、家の前の道は静かだった。新聞配達の原付が一度、通っただけだった。昼を過ぎて、少しずつ、祈りが効いたような気になりはじめていた、その矢先だった。
玄関で、からん、と錠の回る音がした。
引き戸がレールを滑って開いた。がら、と鳴って、少し間があって、閉まった。
「いるんでしょう。上がるわよ」
母の声だった。
足音が、廊下を歩いてくる。ためらいのない足音と、少し遅れて、遠慮がちな足音。重さの違う、ふたつ。私は、仕事部屋の椅子から立てずにいた。聞いたとおりだ、と思った。順序も、重さも、間合いも。昨夜、階下で鳴っていたものと寸分違わなかった。実物のほうが、あとから、なぞっていた。
───
母は、叔母と一緒だった。
形見分けの残りを、取りに来たのだという。仏間の茶箱と、祖母の帯を何本か。ついでに盆の相談も、と母は言った。合鍵は、四十九日のときから持ったままだった。
「来るなら、言ってよ」と、私は言った。声が、少し尖った。
「言ったら、あんた、掃除するでしょう。気を遣わせたくないのよ」と、母は笑った。「それより、顔色。ちゃんと食べてるの?」
叔母は、廊下の途中で足を止めて、台所のほうを覗いていた。
「変わらないわねえ、この家」と、叔母は言った。「姉さんが立ってた頃のまま。——いまにも、台所から、姉さんの音がしそう」
冗談だった。母が、するわけないでしょ、と笑って、叔母も笑った。ふたりの笑い声の下で、私だけが、うまく息を吸えずにいた。しそう、ではないんです、と、喉まで出かかった言葉を、麦茶と一緒に飲み込んだ。この人たちは、あの音を、いい話にしてしまう。祖母が見ていてくれるのねえ、と。そういう種類の音では、もう、ないのだった。
ふたりは、仏間で茶箱を開けて、帯を選り分けて、麦茶を二杯ずつ飲んで、夕方前に帰っていった。それだけの、なんでもない午後だった。なんでもない午後が、一昨日の夜明けに、音として先に鳴っていた。そのことを、私は、ふたりに言えなかった。言えば、心配される。心配のされ方まで、想像がついた。母はまた、いい家よ、と言うのだろう。
見送りに出た玄関で、母が、ふと振り返った。
「あんた、なんだか、聞き耳を立てるような顔になったわね」
どういう顔よ、と、私は笑ってみせた。うまく笑えたかどうかは、分からなかった。
───
ふたりが帰ったあと、私は、考えを整理しようとした。
音は、私の生活だけを先に鳴らすのではなかった。母と叔母が来ること。つまり、他人の決めたことまで、あの音は知っていた。母が来ようと思い立ったのは、たぶん、昨日の夜明けよりあとのはずだ。それなのに、音のほうが先だった。
私の明日、ではない。この家に届く明日、そのものが、先に鳴っている。
予報、という言葉を、私はもう使えなくなっていた。予報は、空を読んで当てるものだ。あの音は、読んでいない。決まっているものを、順に鳴らしているだけのように聞こえた。楽譜のように。演奏より先に、譜面がある。
なら、私は、譜面のとおりに弾く指なのか。
考えは、そこで止めた。止めておかないと、次の問いが来る。譜面に書いていないことを、指は弾けるのか、という問いが。
───
その夜の先鳴りに、いやな音があった。
支度の音のあと、昼の層に入って——夕立の日から、私は、音の並びが一日の時間に対応していることを、なんとなく掴んでいた——その昼の層の途中で、がしゃん、と鳴った。
高くて、鋭い、飛び散る音。ガラスの割れる音だった。
私は、ノートに書いた。
5:07 ガラス割れる。昼ごろ?
二日前の私なら、試さなかっただろう。外れなかったときが怖くて、確かめずに済ませていた。けれど、もう、そこは過ぎていた。二人分の足音は、当たった。当たるところは、もう見てしまった。なら、次に要るのは、外れるところだった。一度でいい。一度、外れてくれれば、あれは絶対ではなくなる。絶対でないものとなら、この家で暮らしていける。
朝になって、私は決めた。試すなら、これだ、と。雨は止められない。母の思い立ちも、止められない。けれど、ガラスは、私の手の内にある。割れるものを、割れない場所へ、あらかじめ移してしまえばいい。今日一日、グラスを使わない。触らない。それで、音が外れるなら——外れてくれるなら、私はまだ、譜面の外にいられる。
───
午前のうちに、やった。
食器棚のグラスを、ぜんぶ出した。祖母の家の、古い硝子のコップが六つ。私が持ってきた、麦茶用のグラスがふたつ。ひとつずつ新聞紙で包んで、割れ物の箱に入れて、戸棚のいちばん下の、奥へしまう。今日は、麦茶もマグカップで飲む。ガラスの鳴る要素を、この家から、一日だけ消す。
単純な作業だった。単純な作業ほど、手は勝手に動く。五つ目までは、何ごともなかった。
六つ目の、祖母の古いコップを包もうとしたときだった。
七月の、蒸した午前で、私の手のひらは、うっすら汗をかいていた。新聞紙を巻こうと、コップを持ち替えた、その持ち替えの一瞬、硝子が、指の腹を、するりと抜けた。
あ、と思う間はあった。間はあったのに、手は間に合わなかった。
コップは、流しの角に当たって、がしゃん、と割れた。
高くて、鋭い、飛び散る音。昨夜、階下で聞いた音と同じ高さで、同じように飛び散った。破片が、床で、ちり、と鳴って、静かになった。拾おうとして、指先を浅く切った。血が一滴、床のふちに落ちた。
私は、割れたコップと、包みかけの新聞紙と、自分の手を、順番に見た。
割らないための手だった。しまうための作業だった。グラスを使わない一日にするための、その用意のなかで、割れた。何もしなければ——いつも通り、棚に入れたままにしておけば、たぶん、割れなかった。
避け方ごと、音は、最初から数に入れていた。
譜面に、書いてあったのだ。「この日、この家で、ガラスがひとつ割れる」と。どう割れるかは、書いていない。割れることだけが、書いてある。私が逆らえば、逆らった手が、それを弾く。
───
破片を片づけて、指に絆創膏を巻いて、私は、長いあいだ、台所の床に座っていた。残った七つのグラスは、包みかけのまま、流しの横に並んでいた。もう、しまう気力がなかった。しまっても、しまわなくても、割れる日には割れるのだ。
昼の台所は、いつもどおり平然としていた。冷蔵庫が、低く唸っていた。この音も、昨夜、先に鳴っていた音だ。いま鳴っているすべての音が、一日遅れの演奏だった。私の座り込んでいる、この衣擦れさえも、たぶん、昨夜のどこかで、もう。
家を出ようか、と、はじめて本気で思った。
音の届かないところへ。譜面の、ページの外へ。今夜の音を聞いて、それから決めよう、と思った。聞いてから決める、という考え方に、もう疑いを持たなかった。私は、明日を、音で確かめてからでないと動けない体に、なりはじめていた。
───
その夜の先鳴りは、いつもどおりに始まった。
水音。冷蔵庫。やかんの笛。私の朝が、支度されていく。昼の層。夕方の層。麦茶。網戸。夜の層に入って、風呂の音がして、布団の衣擦れがして、スタンドの灯りの、ちち、という小さな音が消える。そこまでが、いつもの一日分だった。そのあとは、夜の微かな層が続く。家鳴り。扇風機の、かた。寝返り。夜中に一度、私がトイレに立つ、あの足音。毎晩、判で押したように二時すぎに立つ。それも、いつも鳴っていた。
その夜も、鳴った。
布団の衣擦れ。廊下へ出る足音。ひた、ひた、と廊下を歩いていく。戸の音。水の音。戻りの足音が、廊下を、ひた、ひた、と——
途中で、なくなった。
廊下の、なかばあたりで、足音は、次の一歩を踏まなかった。倒れる音もなかった。座り込む衣擦れもなかった。何かが起きた音すらなくて、ただ、次の足音だけが、なかった。
そのあとの夜の層に、私の音は、ひとつもなかった。家鳴りは続いていた。扇風機の、かた、も続いていた。家は、鳴っていた。私だけが、鳴っていなかった。布団に戻る音も、寝返りも、朝の目覚ましを止める音も、何も。先鳴りは、私の抜けた夜を、朝まで淡々と流して、終わった。
私は、ノートを引き寄せて書いた。指が、絆創膏の下で脈を打っていた。
2:16ごろ 廊下、なかば。足音とまる
以後、私の音、なし
書いてから、自分の書いた「以後」という字を、見ていた。
スマホを手に取った。母の番号を、途中まで出した。この夜中に、何を言うのだろう、と思った。明日の夜中、私の足音が、廊下の途中で終わるの、と言うのだろうか。言われた母が、何をできるだろう。いい家よ、の続きを言わせるだけかもしれなかった。画面を消して、私は、スマホを枕元に伏せた。
明日の夜、二時十六分。私は、廊下のなかばで、足音をやめる。そのあとの私を、音は、一つも持っていない。
外は、まだ暗かった。雨戸の向こうで、家鳴りが、こと、と鳴った。それは今日の音ではなくて、昨日の夜明けに、もう鳴らされた音の、律儀な演奏だった。この家のすべての音に、私はもう、二度目にしか会えなかった。
(第四話へ続く)




