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一日、早い

 やかんの笛が混ざった朝から、私は、あの音を「祖母の音」と呼べなくなった。


 呼べなくなっても、朝は来る。音も、来る。四時五十分ごろ、水音がして、米が研がれ、まな板が鳴り、戸棚が開いて、新しいやかんが、ひゅう、と鳴く。誰もいない台所で、誰かの朝が、支度されていく。


 逃げ出さなかった自分を、どう説明すればいいのか、分からない。怖くなかった、と言えば嘘になる。ただ、怖さより半歩だけ先に、知りたさが立っていた。あれが祖母でないのなら、あれは、何の音なのか。


 私にできるのは、書き取ることだけだった。枕元のノートは、二冊目に入っていた。


───


 書き取ってみて、分かってきたことがある。


 音の中身が、少しずつ、祖母の朝から離れていた。


 祖母の朝は、米を研いで、まな板を鳴らして、味噌汁の実を刻む朝だった。けれど、このごろの音は、まな板の回数が減っていた。かわりに、冷蔵庫の開け閉めが増えた。ぱこ、と開いて、瓶の触れ合う音がして、閉まる。麦茶を出す音だ、と気づくのに、時間はかからなかった。


 私は、朝、あまり自炊をしない。麦茶を飲んで、パンを少し齧るだけの日が多い。まな板より、冷蔵庫の人間だ。


 音の献立が、祖母のものから、私のものに、寄ってきていた。


 水音も、そうだった。祖母の水音は、蛇口を一気に開く、思いきりのいい音だった。このごろの朝の水音は、少しずつ開いて、少しずつ止める。跳ねを嫌う、遠慮がちな音。——私の、開け方だった。


 誰かの朝、ではなかった。あの台所で支度されているのは、日に日に、私の朝に、なっていっていた。


 それに気づいた夜は、少し、眠れなかった。怖かったから、だけではない。祖母の音が、薄れていくのが、思いのほか、こたえた。米を研ぐ音も、まな板の音も、日ごとに減って、いずれ、あの音の中から、祖母の癖は、ぜんぶ消えるのだろう。誰もいない台所で鳴る音を、祖母だと思って聞けていた最初の数日を、私は、たぶん、惜しんでいた。会いに来なかった数年の埋め合わせは、まだ、終わっていなかったのに。


 昼間の台所は、何ごともなかった。


 私が立てば、蛇口はふつうに水を出し、冷蔵庫はふつうに冷え、ガス台は青い火をつけた。私の立てる音は、私が立てたぶんだけ、鳴った。敷居をまたいでも、何も起きない。麦茶を注いで、氷を鳴らして、飲む。ただの、古い家の、ただの台所だった。夜明け前の一時間だけが、この家の別の顔で、それ以外の二十三時間は、拍子抜けするほど、平然としていた。その平然が、いちばん、薄気味悪いのだということに、私は、だんだん、気づきはじめていた。


───


 それでも、そのときの私は、まだ「再生」の側で考えていた。


 この家が、祖母の朝を覚えていたように、越してきた私の生活を、ひと月かけて覚えて、なぞりはじめたのだ、と。家が覚えた音を、夜明けに再生している。だから内容が、私に寄ってくる。理屈としては、それで、通っている気がした。過去の音。もう鳴った音の、繰り返し。そう思っているうちは、まだ、こちら側にいられた。


 崩れたのは、段ボールの音からだった。


 引っ越しの段ボールを、私は、ずっと潰さずにいた。二階の納戸に、畳まずに積んであった。その日の昼、ようやく重い腰を上げて、一枚ずつ、踏んで潰した。乾いた箱の潰れる音は、思ったより大きい。ばかん、ばかん、と、古い家じゅうに響いた。


 夜、ノートを見返していて、手が止まった。


 前の夜の書き取りの、いちばん最後の行。


 5:14 大きい音。何度か。箱?


 書いた覚えは、あった。夜明けの音の終わりに、聞き慣れない、乾いた大きい音が何度かして、何の音か分からないまま、そう書いた。分からないから、疑問符をつけた。


 その音を、私は、知っていた。昼間、この足で、鳴らしたばかりだった。


 書き取ったのが、先。鳴らしたのが、あと。


 偶然、と思おうとした。箱の潰れる音くらい、どこの家でも鳴る。隣の家かもしれない。ごみの日の前は、みんな箱を潰す。私は、ノートを閉じて、寝た。眠れたかどうかは、覚えていない。


───


 決定的だったのは、雨だった。


 その夜明けの音は、いつもの支度のほかに、もうひとつ、層を持っていた。屋根を、叩く音。数えきれない粒が、瓦を打つ、あの音。ざあ、という帯の中に、ときどき、遠くで、低く転がる音が混ざった。雷だ。遠い雷を含んだ、強い雨の音が、支度の音の向こうで、ずっと鳴っていた。


 私は、布団を出て、窓を開けた。


 降っていなかった。網戸の向こうは、乾いた、風のない夜明けで、東の空は、もう薄く白みはじめていて、雲は、ほとんど、なかった。


 家の中では、雨が降っていて、外では、降っていない。


 私は、ノートに書いた。


 5:02 雨。屋根に強く。遠雷も。外は晴れ


 その日の午前を、私は、落ち着かなく過ごした。仕事の合間に、何度も、窓の外を見た。よく晴れていた。洗濯物を干しながら、降らないでほしい、と思っている自分に気づいて、手が止まった。降らなければ、あの音は、ただの家鳴りの親玉で、私の帳面は、ただの寝ぼけた書き付けだ。それで、いい。それが、いい。空は、昼前まで、憎らしいほど青かった。青いままでいてくれ、と、私は、空に頼んでいた。


 昼過ぎだった。仕事の途中で、部屋が急に暗くなった。窓の外で、風が立って、隣家の塀の向こうの木が、ざわ、と裏返った。来る、と思う間もなく、来た。


 屋根を、叩く音。数えきれない粒が、瓦を打つ音。ざあ、という帯の中に、ときどき、遠くで、低く転がる雷。


 私は、仕事の手を止めて、天井を、見上げていた。同じ音だった。粒の強さも、雷の遠さも、帯の厚みも。今朝、夜明けの台所の向こうで鳴っていた雨が、半日遅れて、屋根の上に、届いていた。


 違う。逆だ。


 届くのが、雨のほうが、あとだった。音のほうが、先に、鳴っていた。


 祖母の朝の再生でも、私の生活の再生でも、なかった。再生というのは、鳴ったものが、もう一度鳴ることだ。まだ鳴っていないものは、再生できない。昨日の箱の音も、今日の雨も、先に、鳴っていた。


 あの音は、過去ではなかった。


 一日、早いのだ。


───


 夕立は、一時間ほどで上がった。濡れた瓦から、湯気が立って、部屋の中まで、土の匂いがした。


 私は、ノートを、最初のページから、めくり直した。


 几帳面に並んだ、時刻と、音の名前。水音。米。まな板。戸棚。やかん。箱。雨。——私はこれを、ずっと、昨日たちの記録だと思って、つけてきた。過ぎたものの帳面だと。


 違った。これは、ぜんぶ、明日たちの帳面だった。


 書き取っていた、どの行も、まだ起きていないことだった。私は毎朝、明日の私の生活を、先に聞かされていた。冷蔵庫を、明日も私が開けること。麦茶を、明日も飲むこと。雨が、降ること。ぜんぶ、決まったことのように、先に、鳴らされていた。


 決まったことのように、という言い方を、私は、頭の中で、すぐに打ち消した。決まってなど、いない。明日の私が麦茶を飲むのは、私がそうしたいからで、雨が降るのは、ただの天気だ。音は、先に鳴っているだけ。予報のようなものだ。当たるだけの。


 そこまで考えて、自分の使った言葉に、ぞっとした。


 当たるだけ、とは、どういうことだろう。外れた朝は、一度でも、あっただろうか。ノートを、もう一度めくった。書き取った音で、翌日に心当たりのない音は——分からない音は、いくつかあった。けれど、外れたと言い切れる音は、一行も、なかった。


 夜が来るのが、はじめて、遅く感じられた。


 試してみればいい、と、頭のどこかが言った。明日の音を聞いて、その通りにしなければいい。麦茶を、飲まない一日を、過ごしてみればいい。音が外れるのか、それとも——そこから先を、私は、考えないことにした。試して、外れなかったときのことを、想像したくなかった。予報なら、外れることがある。外れないものは、予報とは、呼ばない。それを確かめる勇気は、その夜の私には、まだ、なかった。


 今夜も、四時五十分に、音は始まる。それを聞けば、私は、明日を知ってしまう。聞かなければいい、と思うのに、聞かずにいられる気も、しなかった。耳をふさいで眠る方法を、私は、もう、持っていなかった。私はもう、あの音の、聞き手だった。


───


 その夜の音は、いつもどおりに、始まった。


 水音。冷蔵庫。やかんの、高い笛。私の明日の朝が、階下で、支度されていく。私は、布団の中で、呼吸を止めて、聞いていた。いつもの音。いつもの順序。明日も、私は、麦茶を飲む。それだけの、明日。


 支度の音が、ひととおり終わって、静かになった。


 いつもなら、そこで、終わりだった。


 その朝は、続きがあった。


 からん、と、金属の回る音がした。玄関の、錠の音だった。続いて、引き戸が、レールを滑る音。がら、と開いて、少し間があって、閉まった。


 足音が、廊下を、歩いてきた。


 一人ではなかった。重さの違う足音が、ふたつ。ひとつは、ためらいなく。もうひとつは、少し遅れて、遠慮がちに。二人分の足音が、廊下を、台所のほうへ、歩いていった。


 私は、明日、誰も招いていない。


 この家の鍵を持っているのは、私のほかに——考えかけて、やめた。考えるより先に、音は、もう、教えてしまっていた。明日、この家の玄関が開くこと。二人、入ってくること。それが、決まっていること。


 ノートに、書いた。手が、少し震えて、字が、いつもより、大きくなった。


 5:19 玄関。二人くる


(第三話へ続く)

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― 新着の感想 ―
怖い怖い怖い… 1話から仄暗い闇をのぞいてる感じがあったけど 闇からこちらを覗かれてた!! 怖いよ〜怖いよ〜 怖いけど 読むのやめられない
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