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夜明け前の水音

 水の音で、目が覚めた。


 階下の台所で、誰かが水を使っている。蛇口をひねって、流しの底に当てて、跳ねないように少し斜めに受ける。そういう、慣れた水音だった。


 この家には、私しかいない。


 布団の中で、私は、しばらくその音を聞いていた。おかしい、と思うより先に、懐かしい、と思ってしまった。それが、いま思えば、いちばんの間違いだった。


───


 祖母の家に越してきたのは、七月のはじめだった。


 祖母は、春に死んだ。四十九日がすんで、誰も住む者のなくなったこの家を、私が継いだ。郊外の、古い木造の二階家だ。子供の頃、夏休みのたびに、私はこの家に預けられていた。両親がいろいろと忙しかった時期で、夏のあいだじゅう、祖母とふたりで暮らした。


 祖母は、朝の早い人だった。


 まだ暗いうちに起きて、台所に立つ。二階の子供部屋で寝ている私は、階下の音で、朝が来たことを知った。水音。米を研ぐ、しゃっ、しゃっ、という音。まな板の、とん、とん。戸棚の開く、こそりとした音。あの音の連なりを聞きながら、布団の中でもう一度眠るのが、私の夏だった。音がしているあいだは、世界のどこも壊れていない。子供の私は、そう信じていられた。


 その祖母の家に、三十を過ぎた私が、ひとりで帰ってきた。都会の集合住宅の、薄い壁ごしの他人の音に、疲れてもいた。仕事は在宅でできるものに変わったばかりで、どこに住んでも、よかった。それなら、と思った。それだけの、つもりだった。


 家は、祖母が出ていったときのままだった。急須と、湯呑みがふたつ、伏せてあった。ひとつは祖母ので、もうひとつは、たぶん、来ない誰かのためのものだった。柱には、鉛筆の線が何本も残っていた。いちばん下の線の横に、私の知らない字で、小さく年号が書いてあった。私の背を測った線も、その中の、どれかのはずだった。


 白状すると、私は、晩年の祖母に、ほとんど会いに来ていない。正月に電話をして、二年に一度、顔を見せるくらいだった。忙しさのせいにできる程度には、忙しかった。この家を継ぐと決めたとき、母は喜んだが、私のほうは、埋め合わせをするような、うしろめたい気持ちが、どこかにあった。誰に対する埋め合わせなのかは、あまり、考えないようにしていた。


───


 音に気づいたのは、越してきて、四日目の朝だった。


 水音のあとに、しゃっ、しゃっ、と米を研ぐ音がした。それから、まな板。とん、とん、とん。少し間があって、戸棚が、こそり、と開いた。


 順序まで、祖母の朝と同じだった。


 私は、階段を降りた。廊下の突き当たり、台所の入り口までは行った。そこで、足が止まった。怖かったから、ではない。入ってしまえば、この音が終わる気がしたからだ。


 入った。


 台所は、無人だった。流しは乾いていた。米を研いだ跡も、まな板の上にも、何もなかった。北向きの窓の外で、隣家の塀が、朝の薄い光を受けはじめていた。音は、私が敷居をまたいだときには、もう、しなくなっていた。


 気のせいで済ませられる程度、と言えば、そうだった。古い家は、音が回る。水道管が、どこかで鳴ったのかもしれない。私は、麦茶を一杯飲んで、二階へ戻った。


 次の朝も、鳴った。


 その次の朝も、鳴った。時刻も、だいたい同じ。夜明けの少し前、四時五十分ごろ。水音、米、まな板、戸棚。祖母の順序で、祖母の速さで、誰もいない台所は、朝の支度をした。


 一度、待ち構えてみたことがある。


 夜のうちから廊下に座って、扇風機も止めて、台所の入り口の、敷居のこちら側で、膝を抱えていた。古い家は、夜、あちこちで小さく鳴る。木の縮む音。どこかの戸の、がたつき。冷蔵庫の唸り。そういう音を数えているうちに、うとうとして——気がつくと、朝だった。廊下で寝てしまった私の、二階の枕元あたりで鳴るはずの目覚ましより早く、水音が、した。


 すぐそこだった。敷居一枚、向こうだった。


 私は、抱えた膝の上から、首だけ伸ばして、台所を見た。薄暗い台所には、誰もいなくて、流しの蛇口は、閉まったまま、動いていなかった。それなのに、水音だけが、流しの底で、鳴っていた。見ている目の前で、音は、米を研ぎはじめた。しゃっ、しゃっ。誰の手も、ないままに。


 立ち上がって、敷居をまたいだ。またいだ足が、床につくのと同時に、音は、やんだ。


 中に入れば、鳴らない。離れて聞くぶんには、鳴る。まるで、聞かせるためだけの音のようだった。あるいは——見られては、いけない何かの。


───


 母に、電話をした。


 あの家で、朝、台所の音がする、と私は言った。おばあちゃんの音と、そっくりなの、と。


 母は、少し黙って、それから、ふふ、と笑った。


「おばあちゃんは、朝が早かったから」


 そういう話ではない、と私は言おうとした。母は、続けた。


「あんた、子供の頃、あの音が好きだったでしょう。覚えてるのねえ、体が。いい家よ、あそこは。大事に住みなさい」


 あんたの思い出が鳴らしてるのよ、と、母は言外に言っていた。夢うつつに、記憶の音を聞いている。そういうことに、された。


「……そうかもね」と私は言った。


 怖い、という言葉は、使わなかった。口に出すと、本当になりそうで、言えなかった。それに——正直に言えば、私はまだ、あの音を、怖いと思いきれていなかった。誰もいない台所で鳴る音を、私は、祖母の残していった何かだと、思おうとしていた。会いに来なかった数年ぶんの、埋め合わせのように、毎朝、あの音を聞いていた。


 誰も気にしていないらしかった。気にしているのは、私だけで、その私も、気にしたくないほうへ、気にしていた。


───


 それでも、几帳面さだけは、残っていた。


 私は、枕元にノートを置いて、聞こえた音を、書きつけるようになった。目が覚めた時刻と、音の順序。


 4:52 水音

 4:56 米

 5:03 まな板

 5:11 戸棚


 書いてみると、分かることがあった。音は、毎朝、ほとんど同じ時刻に始まり、同じ順序で進む。乱れない。生活の音というのは、本当は、もっと揺れるものだ。けれど、この音は、揺れなかった。祖母の朝を、きれいに、なぞりすぎていた。


 そして、もうひとつ。ノートを何日かぶん見返して、私は、あることに気づいた。


 やかんの音が、ない。


 祖母の朝には、必ず、やかんがあった。米を研いだあと、古いやかんを、こん、とガス台に置く。しばらくして、ことこと、と湯が鳴り、やがて、ひゅう、と細い笛が鳴く。あの笛の音で、私は、布団を出たのだ。朝の音の、締めくくりだった。


 その、いちばん祖母らしい音だけが、毎朝、抜けていた。


 なぜだろう、と考えて、私は、思い当たった。あのやかんは、もう、この家にない。底が焦げ抜けていて、形見分けのとき、叔母とふたりで、処分に出した。この家から、なくなった道具。


 ——音は、いま、この家にあるものしか、鳴らさない。


 そう気づいたとき、うなじのあたりが、すっと冷えた。記憶の音なら、やかんも鳴るはずだった。祖母の朝の再現なら、あの笛を抜く理由がない。この音は、祖母の朝を、なぞってなどいないのかもしれなかった。この家の「いま」を、なにかべつの決まりで、鳴らしている。


 その何かを、確かめる方法を、私は、ひとつしか思いつけなかった。


───


 週末、私は、駅前の金物屋で、やかんを買った。


 新しい、笛吹きのやかんだ。祖母のものより、ひとまわり小さくて、笛の音も、たぶん少し高い。麦茶ばかりの夏でも、湯は使う。買う理由なら、いくらでもあった。確かめるために買ったのではない、と、レジの前で、自分に言い聞かせた。


 その日は、一度だけ、湯を沸かした。新しいやかんは、ことこと、と鳴ってから、思ったとおり、祖母のものより高い音で、ひゅう、と鳴いた。聞き間違えようのない、新入りの声だった。私は、火を止めて、やかんを、ガス台の上に置いたままにした。


 夜は、麦茶を飲んだ。グラスの中で、氷が、からん、と鳴った。網戸の向こうは、風のない、蒸した闇だった。この家の夏の夜は、静かで、静かなぶんだけ、朝のあの音のことを、考えてしまう。考えないために点けた扇風機が、首を振るたび、かた、と小さく鳴った。生きて動くものの立てる音は、それくらいだった。この家で。私のほかに。


 夜、布団に入ってからも、その笛の音が、耳に残っていた。


 祖母は、このやかんを、知らない。


 あの音が、祖母の何かであるのなら、明日の朝の音に、この笛は、混ざらないはずだった。混ざらないでほしい、と、私は、思っていた。半分は。もう半分が、何を思っていたのかは、考えないようにした。


───


 夜明け前に、目が覚めた。


 階下で、水音がした。しゃっ、しゃっ、と米を研ぐ音。まな板。戸棚。いつもの順序が、いつもの速さで、進んでいく。私は、布団の中で、呼吸を止めて、口を少し開けて、聞いていた。子供の頃からの、聞くときの癖だった。


 戸棚の音のあと、こん、と、金属を置く音がした。


 ややあって、ことこと、と湯の鳴る音。


 そして。


 ひゅう、と——高い、笛の音が、鳴った。


 祖母のやかんの音では、なかった。昨日、私が一度だけ鳴らした、あの、少し高い、新入りの声だった。誰もいない台所で、買ったばかりのやかんが、鳴いていた。


 祖母は、このやかんを知らない。


 なら、あの台所で毎朝、支度をしているのは——祖母では、ない。


 笛の音は、しばらく鳴いて、火を止める者もないまま、ふいに、やんだ。私は、布団の中で、朝までじっと、目を開けていた。階下は、もう、何の音もしなかった。支度だけが、済んでいた。誰の、何のための支度なのかを、私はまだ、知らずにいた。


(第二話へ続く)

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