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鳴らなかった音

 その日の朝は、ノートを逆さまに読むことから始まった。


 書いてある音を、読むのではない。書いていない音を、探すのだ。昨夜の先鳴りに、鳴らなかった音。それが、今日の私の、しないことの一覧だった。


 荷造りの音は、なかった。簞笥の開く音も、鞄のファスナーも、鳴らなかった。玄関の引き戸は、母たちの来た日とは違って、一度もレールを滑らなかった。靴の音も、ない。誰かと話す、私の声も、ない。電話の、呼び出しの音さえ、なかった。


 つまり、今日の私は、荷造りをしない。この家を出ない。誰にも電話をかけない。誰からも、かかってこない。


 最後の行の下に、ゆうべ書き足した一行があるのを、見た。夜が明けるまで聞いていた、先鳴りの、いちばん最後の音。


 6:30ごろ 目覚まし。鳴りやまず


 明日の朝——いや、もう今日の、明日の朝。私の目覚ましは鳴って、誰も止めない。


───


 一度だけ、望みを持った。


 音がないのは、私が、この家にいないからではないか。今夜、母のところにでも泊まってしまえば、二時十六分、私は廊下にいない。いない者の音は、鳴らない。途絶は、外泊の印かもしれない。そう思いついたとき、指の先まで、血が通い直す感じがした。


 ノートが、それを否定した。


 夜の層には、風呂の音があった。布団の衣擦れがあった。そして、二時すぎ、廊下へ出る、私の足音があった。私は今夜、この家にいる。風呂に入り、布団に入り、夜中に廊下へ出る。そこまでは、鳴っている。いなくなるのは、廊下のなかばからだ。


 外泊する者は、自分の家の廊下を、夜中に歩かない。


 望みは、ノートの三行で片づいた。私は、自分のつけた帳面に、逃げ道を先回りされていた。几帳面は、こういうときに、自分へ牙を剝く。


───


 それでも午前のうちに、一度、鞄に手を伸ばした。


 押し入れから、旅行鞄を出して、畳の上に置いた。置いたところで、手が止まった。詰めるものを考えはじめると、着替えのほかに、何も浮かばなかった。財布。充電の線。ノート——ノートは、持っていくのか。あの帳面を、よその家で開くのか。母の家の、客間で。


 外は、朝から白く灼けていた。この暑さの中を、駅まで歩くのか。母に、何と言うのか。泊めて、と言えば、理由を訊かれる。理由を、言えるのか。


 やめる理由が、次々に、自分の中から湧いてきた。


 湧いてくる、その感じの滑らかさが、いちばん、こわかった。誰かに止められているのではない。私が、私の言葉で、私をこの家に置こうとしている。ガラスのときと、同じだった。譜面は、外から手を摑んではこない。私の「そうしたい」を、通ってくる。逆らう手も、諦める心も、はじめから、数に入っている。


 鞄を、押し入れに戻した。


 戻す音は、たしか、昨夜、鳴っていた。押し入れの、襖の音。ずず、という重い音。書き取りながら、何の音か分からなかった行。


 4:59 襖? 重いもの


 合っていた。私は、いま、その行を弾き終えたのだった。


───


 午後は、静かに過ぎた。


 麦茶を、マグカップで飲んだ。グラスは、もう使わない。流しの横に、包みかけのまま並んだ七つの硝子は、午後の光を、じっと受けていた。扇風機が、首を振るたび、かた、と鳴った。どの音も、昨夜、聞いた音だった。私は、一日遅れの、私の演奏を生きていた。


 窓の外では、世界が、いつもどおりだった。夕刊の原付が、家の前を通っていった。どこかの子供が、自転車のベルを鳴らした。誰の明日も、欠けていないらしかった。欠けているのは、この家の、私の、今夜の二時十六分から先だけで、それを知っているのも、世界じゅうで、私ひとりだった。


 ノートを、何度も開いた。


 「以後、私の音、なし」。その一行を、読み方を変えて、読もうとした。倒れる音は、なかった。それなら、倒れない。苦しむ声も、なかった。それなら、苦しまない。争う音も、連れていかれる音も、戸の音も、何もなかった。何も起きない音、というものは、ないのだ。静けさは、最悪の知らせの形もしていれば、ただの静けさの形もしている。どちらに読むかは、まだ、私に残されている気がした。それが、ほんとうの望みなのか、望みの形をした諦めなのかは、分けられなかった。分けられないまま、午後の光は、少しずつ斜めになった。


 夕方、仏間に線香を上げた。


 祖母の写真は、こちらを見ているようで、少しだけ視線が外れている。生きていた頃から、写真の苦手な人だった。りん、を鳴らすと、澄んだ音が、長く尾を引いた。この音も、昨夜の先鳴りにあった。私が今日、ここに座ることは、決まっていた。それなら、この手が線香を選んだことも、決まっていたのだろうか。決まっていても、いい、と思った。決まっていても、上げたかったのだから、同じことだった。


 おばあちゃん、と、声に出しかけて、やめた。私の声は、昨夜、鳴っていない。


 声の代わりに、長く、手を合わせた。合わせた手は、音を立てなかった。音を立てないことなら、いくらでもできた。それが、ゆいいつの、譜面の外だった。


 仏間を出るとき、柱の、背比べの線の前で、足が止まった。いちばん下の、小さな年号の線から、いちばん上の線まで、掌ひとつぶんずつ、誰かが伸びていった跡。この柱は、その夏ごとの音を、ぜんぶ聞いていたはずだった。祖母の包丁も、私の、廊下を走る足音も。家が音を覚えるのだとしたら、覚えはじめたのは、きっと、ずっと昔からなのだ。私が来るより、ずっと前から、この家は、聞く側だった。


 誰にも聞かれずに立てた音は、鳴ったことになるのだろうか。


 ふと、そんなことを思った。思ってから、それが、今夜の私の問いになることを、まだ知らずにいた。


───


 夜は、来る。


 風呂に入った。湯の音は、昨夜のとおりに鳴った。布団に入った。衣擦れも、そのとおりに鳴った。スタンドの灯りを消す、ちち、という小さな音。そこまで、ぜんぶ、なぞった。


 眠れるはずがない、と思っていた。思っていたのに、先鳴りには、寝返りの音があった。私は、眠る。決まっているなら、抗っても仕方がない——そう思って、目を閉じたのか。それとも、ただ疲れていたのか。分からないまま、眠りは来た。決まっていることは、こんなふうに、いつも、自然の顔をして来る。


 目が、覚めた。


 枕元の、スマホの画面を見た。二時三分だった。


 尿意は、なかった。それなのに、体は、もう布団の上に起きていた。廊下へ出たい、というのとも違う。ただ、ここから先の私の体が、どう動くのかを、この耳で確かめたかった。昨夜の私が聞いた音を、今夜の私が、鳴らしにいく。聞き手と弾き手が、ここで入れ替わる。


 私は、布団を出た。衣擦れが鳴った。知っている音だった。


───


 廊下は、夜の底で、まっすぐだった。


 突き当たりに、便所の戸。その手前に、台所の入り口。私は、歩き出した。ひた、ひた、と、自分の足音がついてきた。この音だ、と思った。昨夜、階下で聞いた、あの足音。歩幅も、速さも、こうして歩いてみれば、寸分違わず、私だった。


 便所へ行くつもりの足が、途中から、そうでないことに気づいていた。私の目は、廊下の突き当たりではなく、手前の、台所の入り口の暗がりを見ていた。あの、敷居を。またげば音のやむ、あの場所を。


 廊下の、なかばで。


 足が、止まった。


 止めたのか、止まったのか、分からなかった。ただ、そこが、あの場所だと、体が知っていた。昨夜の音が、途切れた場所。ここから先の私を、譜面は持っていない。


 立ち止まったまま、私は、耳を澄ませた。家鳴りが、こと、と鳴った。扇風機は、今夜は点けていない——いや、点けていないのに、昨夜の先鳴りでは、かた、と鳴っていなかったか。もう、確かめられなかった。ノートは、枕元だった。戻って確かめる足音を、私は、昨夜、聞いていない。


 次の一歩は、書かれていない。


 倒れる音は、なかった。泣く声も、なかった。連れていかれる音も、争う音も、何ひとつなかった。ないことを、私は、ずっと、こわがってきた。けれど、いま、この静けさの入り口に立ってみれば、ないことは、まだ、何も書かれていないことと、同じ顔をしていた。


 私は、次の一歩を踏んだ。


 便所のほうへ、ではなく。台所の、敷居のほうへ。


───


 敷居を、またいだ。


 音は、やまなかった。やむも何も、台所は、はじめから静かだった。夜明けまで、まだ間のある、ただの暗い台所だった。私は、明かりを点けず、窓からのわずかな白みだけで、流しの前に立った。


 祖母が、毎朝、立っていた場所だった。ここから、あの音たちは、私の夏に届いていた。音がしているあいだは、世界のどこも壊れていない。あの頃の私に、そう信じさせてくれた場所に、いま、私が立っていた。


 やかんに、水を入れた。蛇口は、少しずつ開いて、少しずつ閉めた。私の癖の、水音が鳴った。


 伏せてあった、ふたつの湯呑みの、片方を起こした。


 ガス台に、やかんを置く。こん、と、金属の音。火を点ける。青い火が、暗がりの底で、静かに立った。


 ことこと、と、湯が鳴りはじめる。


 私は、流しの前に立ったまま、その音を聞いていた。この音を、私は、昨夜、聞いていない。先鳴りの、どこにもなかった音。二時十六分の向こう側で、いま鳴っている、はじめての音。それが、何を意味するのかは、分からなかった。譜面の外へ、出たのか。それとも、もう、譜面に書かれない側にいるのか。


 やかんが、ひゅう、と鳴きはじめた。


 高い、新入りの、あの笛の音。かつての夏、この笛が鳴ると、朝が来て、私は布団を出たのだった。


 この音は、昨夜、鳴らなかった。


(了)

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