7.綠水堂 『千寿せんべいのパチもん菓子』
スナックコーナーに戻った俺に対し、空になったプラ丼と菓子の袋が散乱するテーブルに肘をつきながら、アユミは口を開いた。
「……すぐ戻る言うてなかったっけ」
「いや、そこから見とったから分かるやろ……これでも俺は途中でギブや。ファン君らはまだやっとる」
俺はクレーンゲーム筐体がある方には一切顔を向けず、アユミとテーブルを挟んで向かい側の椅子に腰をかけてから、手でその方向を示した。
陽気なBGMと、失敗したときの『アヒャヒャヒャ』という機械音声、長楽の多種多様な叫びがぼやけたようにして耳に届くたび、胸が痛む。
「足場屋のボン、見捨ててきたんや」
「ひ、人聞き悪いこと言うなぁ、断腸の想いやったんや……ううっ」
「いやキショイ泣き真似すんなて……」
「手厳しいな……はぁ……」
深くため息をつく俺に、彼女は心底不思議そうな様子で首をかしげた。
「なんや、言葉キツかった?」
「それはとっくの昔から……いや俺、意気揚々とあの二人に声かけたんはええけど、結局なんの問題も解決はしとらんのよな」
「……ふぅん、そうなんや」
「アユミが来る前に、長楽がファン君に『どうせお前も飛ぶ気なんやろ』って言っとった。たぶん……ナガラ足場は過去に、ほんまに実習生に飛ばれとる会社や」
かつて報道の道を志していた俺が、多くの外国人技能実習生が直面する劣悪な労働環境のこと、彼らが起こしてしまった日本での犯罪のこと、そこに至る因果関係のことを知らないはずがない。
実際、俺がファン君に声をかけたのも、真っ先にそういったことが頭に浮かんだからでもあった。
「ファン君はたまたま根性座ってる子やったから、今回はどう聞いてもドラえもんの話しか出てこんかったけど……それでもこのままあの会社で働いとったら、いずれ……」
せっかくアユミに背中を押してもらったのに、俺ではやっぱり力不足やったらしい。
俺はただあの二人で、一緒にクレーンゲームで遊ばせただけで――
「これでええやん」
アユミはそう返して、肘をついたまま馬鹿の声が響くクレーンゲームの方を向いた。
どうやら三つ目のドラえもんが取れたらしく、彼ら二人は同じガッツポーズを決めながら叫んでいた。
「アイツと親父の意見が合わへんってのは、ここらではまぁ有名な話やけど。外国人でもなんでも、雇ってる人間とどう向き合うかを最後に決めんのは……跡取りになるアイツの仕事やろ」
そして、彼女の目はふたたび俺の方を真っすぐ見つめて、その口もとにはうっすらと微笑みが浮かんでいた。
「――迎えてくれさえすれば、多少のキツイことなんて耐えられるんよ」
アユミの言葉に、一瞬返す言葉を見失った。
さっき破きかけた袋のお菓子はすでに食べられていたので、俺は慌てて残りふたつとなったお菓子のうちひとつを手に取り、覚束ない手で個包装を破こうとする。
しかし思いのほか粘着が固く、なかなかうまく破けずにいると、彼女はそのまま言葉を続けた。
「ウチは報道のこととか何も詳しないけど、これも“知る形”のひとつやろ。これはシュンが行動したからできたことや」
「……ど、どうも」
俺は、妙に無垢な肯定とまっすぐな眼差しを向けてくるアユミに、どこか小恥ずかしい気持ちが生まれていた。
――アユミ、ほんまにこの二年間で何があったんや。
ようやく破けた小袋からお菓子を取り出すと、それをすぐさま頬張る。
口の中で広がっているはずのヴァッフェルと抹茶クリームの仄かな甘味が感じられないほど、頭の中は疑問でいっぱいだった。
そして、頬張っていたものをゴクンと飲み込んでから、俺はたまらず口を開いた。
「な、なぁ……差し支えなかったら、教えてほしいんやけど」
「んー?」
自分のことは何も教えられてないのに、本当にフェアじゃないとは思う。
ただそれでも、俺は彼女がさっき口にした『行きたかったら、行ったらええ』という言葉を、『聞いてもいい』と心の内で都合のいいように解釈した。
「俺が上京してた間、アユミ自身に何か変わったことあった?」
「変わったこと……」
「もちろん、答えられる範囲でいいから」
「……ええよ。ざっくりやけど」
存外、アユミの反応は淡々としていた。
「まず……そやな、両親との縁はもう切ったったわ。正確には戸籍を分けただけやけどな」
「……ずっと言ってたもんな。ってことは、正式に住所も?」
「うん、今は瀬貝自工の修理工場に置いとるし、仕事もそこでさしてもらってる」
10年前、三人が出会った夜からしばらく経ってからのこと。
夜な夜なドライブインに入り浸り、家に帰りたがらないアユミを心配した社長は、夜は無人になる修理工場の休憩所の鍵を彼女に持たせ、「自由に使え」と寝床兼、第二の逃げ場として密かにそこを開放していた。
社長曰く『あくまで緊急を要する“一時保護”や』とのことだったが、法律に当てはめれば十中八九アウトだったはずだ。
それでも、危険を冒した社長の計らいは、警察を頼れないアユミにとって大きな救いとなっていた。
「そっか。それは良かったって言っていいんか分からんけど……良かったなぁ」
「うん……おおきに」
アユミの表情が、気持ち穏やかになった気がした。
その様子を見て、俺も安心した。
「しかし、それやったら納得や。なんでアユミが社長のシビック乗っとるんかなって、昨日からずっと思ってたし」
しかし、その次に彼女の言葉が紡がれるまでの間、さらに空気が変わったような気がした。
「社長はもう車――運転でけへん」
「……え」
「目の病気らしい……けど、うちも詳しくは聞かされてへん。ある時から、社長がお前が運転せぇって言い出して……」
あまりに唐突なカミングアウトに、俺はなんだか浮世離れした話だと思ってしまった。
ゴリゴリのヤクザみたいなあのおっちゃんが、やたらと愛情注いでたシビックにすら乗れんような状況になってるなんて。
「そうか……それは、心配やな」
「……そんな、しんみりすんなし。別に死んだわけやあらへんのに」
「いや、そうやけども……」
「それに、社長は別に親代わりでもなんでもあらへん。ウチらはただの社長と従業員や」
「……」
アユミの表情は変わらない。
彼女の目は、さっきからどこを見据えてるのかも分からない。
「こんなんでええか、シュン」
「……せやな、おおきに」
明らかにテンションが落ち込んでいる俺とは対照的に、アユミは平常運転と言わんばかりの所作で、静かに最後のお菓子を手に取った。
そしてさっと袋を破き、それを口に運ぼうとしている。
「……アユミ」
「ん、なに」
「11個目ちゃうの、それ」
「……あ」
口に入る直前。
少し荒れた薄ピンクの唇にヴァッフェル生地が触れた状態で、アユミは固まった。
「ははは……腹減ってへん言ってたわりには、よほど美味かったんやなぁ。ただ、俺ももうちょい食いたかったなぁ~」
本当はそこまでお菓子を食べたいわけではないが、どことなく湿っぽくなってしまった空気を変えるため、そしてちょっとした強がりで、からかい混じりにそう言った。
するとアユミは唇からそっとお菓子を離して、表情を変えず、しかし肩を落としながら言葉を零した。
「……かんにんや。ウチ、こういう加減が分からへんくて」
抑揚の少ない声からでも、ことのほか言葉を深刻に捉え、申し訳なさそうにしている様子が窺えた。
ふと思い出したのは、ボロボロの服で一人、黙々とハンバーガーを口にする幼いアユミの姿。
俺は『しまった』と思い、身振り手振りを駆使して、慌てて言葉を返す。
「ち、ちゃうちゃう、ホンマはそこまで気にしてへんっ。だ、大丈夫や、こういう人間同士のめんっどくさい駆け引きなんて、これから一緒に覚えていったらええ!」
アユミの肩が一瞬跳ね、目がパチパチと瞬く。
ああやって凹まれると、こっちも調子狂うねん……。
ほんの少しの間、周囲は長楽とファン君が戦っているクレーンゲームの音、多種多様なゲーム筐体の音、そして食品自販機たちの稼働音に包まれた。
「……うん」
そして、コクンと頷いた彼女を見て、俺は安堵した。
「せやから、食べたらええ。そもそもアユミは痩せすぎ……」
しかし、アユミは俺の言葉を遮るように――
「シュン、これあげる」
さっき口に運ぼうとしていたお菓子を、そっとこちらに差し出してきた。




