75.サンリオ 『ハローキティ』
それから、しばらくのこと。
看護師がベッドの操作とオムツ交換のために入室してきたタイミングを区切りに、俺たちは病室を後にした。
この先、社長の体力の消耗や疼痛を誘発してしまう問題もあるため、あまり高頻度で見舞いに訪れることはできない。
当面、社長はこれ以上の病気の再発を防ぎ、残された体力……すなわち余生を大切にしながら過ごすこととなる。
「……こんなに早く、父に会いに来てくれはるとは思っていませんでした」
長いリノリウムの廊下を歩く途中、先を歩く玲さんは軽くこちらを振り返りながら、そう言った。
「いえ……入院先のこと、教えてくれて本当にありがとうございました。社長は俺たちの大恩人ですし、アユミのこともありましたから……」
俺の返答を耳にして、玲さんは可笑しさをはらんだような、なんともいえない声色で「大恩人……か」と繰り返した。
一方のアユミは、俺の隣を上の空になりながら歩いている。
ようやく家族になれた“父”と、またここに来られるとはいえ、今日のところはこうも早くに引き離されてしまったのだから、無理もない話だ。
そして俺の方はというと、玲さんに対して疑問に思っていたことを口にするべきかどうかを迷っていた。
「……あの」
「そういえばお二人は……ここまでどうやって、お越しになったんですか? 駐車券、ナースセンターでハンコ押してはらへんかったけど」
俺は小さな声で質問を投げかけようとしたが、玲さんの凛とした声に綺麗に上書きされてしまった。
「なんや、よう見たら二人とも……特にシュンさんの方なんか、やけに服と靴がボロボロで……」
「あぁ……実は俺たち、ここまで歩いて来まして……」
「あぁ、歩いて……歩いて!?」
ここに来て、彼女はそれまで発することのなかった素っ頓狂な声を上げ、俺を驚かせた。
嗚呼、この人こんな声を出すことあるんだ……。
そんなことを考えている間にも、玲さんは困惑した様子で「はー……」「えぇ……」などと一人呟き続けている。
「……よ、よろしければ、車でお送りしましょうか。まぁ別に、歩くのがお好きなんやったら……お止めはしませんが……」
なんでか分からないけど、俺はちょっと傷ついた。
だが同時に、俺があえて目を背け続けていた復路の21km行軍が、ここにきて直視しないといけないタイミングが近づいていたこともあり、玲さんの申し出は願ってもないものだった。
「い、いえ……! 是が非でもお願い……あっ」
しかし、“車”という言葉を意識した途端、俺はハッと我に返り、慌ててアユミの方を振り返った。
「アユミ、その……大丈夫か?」
それまで上の空だったアユミは声に反応して、少し真面目な顔でそっと自身の頬に触れた。
そしてほどなくして、彼女の目は俺の目と真っすぐ向き合った。
「……たぶん大丈夫、平気や」
「ホンマかっ……そうか。それやったら、よかった……」
きっと、社長との間にわだかまりが無くなったことで、車に対するトラウマも一緒に軽減されたのかもしれない。
そう思い、俺が一人胸を撫で下ろしている傍ら、アユミは玲さんの方を向き直して口を開いた。
「家までお願いしても……ええかな、“レイちゃん”」
その瞬間、三人の足がピタリと止まった。
アユミの口から、突如飛び出した“レイちゃん”というスーパーウルトラワード。
俺は呆気にとられながらも、なぜ彼女がその呼び方を唐突に選択したのか、か細い記憶の糸をたどってみた。
『――ウチは世界のてっぺんとらな、玲ちゃんかリョーコちゃんにシュンがとられてまうねん』
そして、思い出した。
あのスナックでの飲み会で、アユミがしれっとその言葉を、確かに口にしていたことを。
もしかしてアユミは……玲さんのことを、ずっとそう呼びたかったのだろうか?
「……はぅ」
玲さんは玲さんで、俺たちから表情を隠すように顔を背け、なぜか胸をぎゅうと押さえはじめた。
彼女も先ほどまでのアユミのように、何か胸のつかえに苛まれているのではないかと、俺は急に心配になった。
「……玲さん? 大丈夫ですか、今なんか『はぅ』って……」
「……は……ハウスダストかなぁ、ふふふ。び、病室で吸いすぎたんかもしれません……」
「病室にハウスダスト……? せ、清掃が行き届いてないってことですか!? それはよくないですよ、社長のためにも、いますぐ看護師さんにクレーム入れますね!」
「い、言わなくていいっ、ですっ。なんか、気のせいみたいやわぁ……いや待ってしんどい」
玲さんの声はだんだんと尻すぼみになり、最後に何かを小さく呟いていた。
急に彼女の様子がおかしくなったことを不安に感じたのか、アユミも恐る恐る声をかけた。
「大丈夫か、レイちゃん? 『しんどい』んやったら無理せんでも……」
「ンオっ……! だ、大丈夫です……ハァ、ハァ。ち、チュウ、駐車場、行きましょう……ハァ、ハァ……!」
玲さんは息を荒げ、動悸を押さえているようだった。
えっ、怖い。
ほ、ほんまにこの人、大丈夫なんか……?
◆
病院の広い駐車場を回り、先日も目にした淡いピンクとホワイトのツートンカラーで彩られた、一台のムーヴキャンバスが姿を現した。
こうして改めて観察すると、普段目にしているカリッカリなスポーツカーのシビックや、実用性特化で没個性な軽トラと比べると、ずいぶんと可愛らしい外観の車だと思う。
アユミも、「女もんや……」などと呟きながら、そんな玲さんの車を見回していた。
「さぁどうぞ、狭い車でかんにんです……」
「いえいえ、すみません。本当に助かります」
「おおきに……レイちゃん」
「っ……ハァ、ハァ……」
玲さんが突発的な動悸を起こすたび不安に苛まれるが、正直、今の俺にあの道のりをもう一度歩き通す自信はないので、その都度見なかったことにしている。
後部座席に腰をかけると、後から乗り込んだアユミが前方のルームミラーに吊り下げられた、古めかしいマスコットキーホルダーに気づいた様子で口を開いた。
「……キティちゃんや」
これも、俺は以前に一度目にしているが、あの時はこの車が玲さんのものとは知らなかったので、特に気にかけてはいなかった。
アユミのクールを装いつつも好奇心を抑えられない様子に、玲さんは微笑みながら返事をかえす。
「あぁ、これ……昔お父さんからもうた、数少ないプレゼントなんです」
玲さんは昔を懐かしむように、さらに語りを続けた。
「あの人……年頃の女の子が喜ぶもんなんて、なぁんも知らはらへんかったから。せがんで買うてもらったキティちゃんに『おおきに』言うたら、何とかのひとつ覚えみたいに……ずっとキティちゃんのグッズばっかり、渡してきはるようになってねぇ」
そして、それを耳にしたアユミは、ジャケットのポケットをおもむろにまさぐりはじめ――やがて一枚のハンカチを取り出して玲さんに見せつけた。
それは今となっては懐かしい、俺がいつか鼻血を流したときに貸してくれた、例のキティちゃんハンカチだった。
「いっしょや……ウチにくれたんも、キティちゃんばっかしやった」
「……ふふ、ほんまやね」
玲さんがクスリと笑うと、アユミの口角も自然と上がっていった。
互いのキティちゃんグッズを示し合わせてから程なくして、玲さんは満足げに車のエンジンをかけようとしていた。
そんな彼女の様子を見て、俺はさっき聞けなかったある疑問を投げ掛けることにした。
「……玲さんが、俺たちに入院先を教えてくれたのって、はじめから《《こうなる》》ことを予想してたからなんですか?」
ちょうど車のエンジンがかかって、車内がブルンと震えた。
アイドリングが始まってから数秒間、彼女は思案するそぶりで「んー」と唸っていた。
「……実は私にも、よう分かってへんのです。ほんまは、どっちに転んでほしかったんか」
「えぇ?」
「だって、あの場で言うたことはぜぇんぶ本心なんですよ。父や町を憎んでいたことも含めてね」
玲さんはあえて意地の悪い口調を取り繕っているようだったが、以前のようなぞわつく感覚を覚えることは不思議となかった。
「でも、ひとつ確かなんは……もう迷い続けるんが、しんどなったってことです。そして、シュンさんやったら……父の本音も、上手に引き出してくれはるんとちゃうかと、思ったんです」
「玲さん……」
「まぁ蓋を開けてみれば、実際にあの人の本音を引き出せたんは、アユミちゃ……ゴホン。アユミさんのパワープレイやったわけやけど……」
アユミの方を見やると、なんだかバツの悪そうな様子でプイと顔を背けてしまった。
「まぁなんにしても、あの人の本音を聞いてしもたおかげで……私はこれから瀬貝自工って泥舟を、なんとか水に浮かべなあきません。皮肉なことに、心がすっきりしたぶん……悩みのタネそのものは増えてしもたんです」
玲さんは自嘲気味に乾いた笑いを浮かべながら、サイドブレーキを外してシフトレバーを動かす音を車内に響かせる。
そして、俺は玲さんの言葉をすべて飲み込んで――あの提案をいま、持ちかけることにした。
「泥舟か……。玲さん、実は――」




