74.無題
「玲……か」
社長は病室の入口を振り向くこともなく、一度浮かせた腕をベッドに落とし、落ち着き払った様子で口を開いた。
一方のアユミは、彼のパジャマをその手でしっかりと掴んだまま、強く見開いた目で視線を入口に送った。
「……かんにんなぁ、最初からぜえんぶ廊下で聞いとったんよ。えらい、いつもより元気そうに話してはるやないですか」
淡い春色のセーターとフレアパンツに身を包み、アイボリーのステンカラーコートを腕に抱えた玲さんは、いつもよりフランクな口調で社長に声をかける。
それを受けた社長は、バツが悪そうにふーっと息を吐いて、そのまま押し黙ってしまった。
「少なくとも……私は困ります。余所もんの女の人を、家族に迎える迎えへんなんて話を……コソコソ勝手にしてはるなんて」
靴のかかとが床に当たるたび、病室内にカツ、カツと音が響く。
アユミの見開いた目は次第に細まっていき、それはやがて社長の足下まで近づいた玲さんに向けられる、ギラギラとした灰色の眼光と化した。
しかし、玲さんはそれに構うことなく、さらにこう続けた。
「――なんでいつも大事なこと、娘に相談せえへんの」
刹那、アユミの目から鋭さが失せ、瞼がパチパチと瞬いた。
「私かて……たった一回、『こいつの成人祝いや』なんて言われて、スナックで少し話しただけの子と家族なるか言われても……そら嫌やわ」
社長は表情を崩すことなく、静かに耳を傾けている。
「でも……それやったら、お父さんがもっとしっかり話の場を設けはって、キチンと紹介と相談をせな……ほんまはアカンのと違いますの」
「……玲」
「自分一人でぜぇんぶ決めて、上手くいくような器やないなんて――自身でもとうに分かってはるはず」
そして、玲さんは身をベッドにグイと乗り出し、社長と間近の距離で顔を突き合わせた。
「――なんで、もっと娘を頼らんの」
凛と響き渡った叱咤の直後、病室から音が消えたように錯覚した。
首を硬直させたまま、開いて閉じてを繰り返す社長の瞼を、玲さんは真っすぐな目で見つめている。
そんな二人の姿を、俺も、手の力が緩んだアユミも、今はただ見守ることしかできなかった。
「……工場のことだってそう。ホンマは残したいんやったら……『残したい』の一言くらい、言うだけ言うてみはったらええやないですか」
「……お前が、言うたんやないか……『引き際……弁えろ』て……」
「えぇ、言いました。再建はもはや、お父さんには荷の重い仕事や思うてます」
「……それに、お前は……俺も、この町のこともなんもかんも……ホンマに恨んどったやろ……」
「えぇ……それもホンマのことです」
社長の息は粗く、すでにアユミとの会話で体力を消耗していたのか、段々と流れる脂汗の量……そして全身の震えの強さが、目に見えて増していた。
今日はもう……あまり長く話すことはできないのかもしれない。
「せやろが……そないな状況で……」
「――せやけど、後から“好き”に変わるかもしれへん」
しかし、そんな彼の震えが――その瞬間、ぴたりと止んだように見えた。
「……売却案と並行しながら、実はどうやったら工場を生き残らせられるか……私なりにぎょうさん案を考えてはいました。せやけど、もっと早ように相談してくれてはったら……もっと建設的な方法があったはず」
「……玲……」
俺は、玲さんの『ぎょうさん考えて』という言葉を聞いて、いつかのビューレストランそがで目にした、疲労困憊な彼女の姿を思い出した。
彼女が言っていることは、決してポーズでも嘘でもない。
「……あの亭主関白が、なんでそんな怖がりになってしもたん。反抗期の娘たちに“頼る”ことが、そんなに怖いん?」
言葉の直後、アユミが小さく「たち……?」と零した。
それを耳にした玲さんはギョッと肩を跳ね上げ、意味深な咳ばらいをゴホンと挟んでから――社長のやせ細った右腕をやや強引に掴み、言葉を続けた。
「と……とにかく。まだもう少し、お父さんには生きてもらわなねぇ」
「……何すんねん、玲」
社長は腕を掴まれたことに困惑しているようで、瞼を閉じたまま首を所在なさげに右往左往させている。
「あなたがぎょうさん黙って溜め込んではった仕事を……これから一緒に、一個ずつ整理していかなあきません。そのためにもまず……」
そして、玲さんの手によって社長の右手は――
「あっ……」
――アユミの頭に優しくそっと置かれた。
「ちゃっちゃと、どうしはんのか決めてもらえますか?」
そして、玲さんは続けて社長の左手を持ち上げ、今度は自身の頬に彼の手を添わせるように重ねて、目を瞑った。
アユミはしばらくの間、驚きを隠せない様子でがちがちに硬直していた。
しかし、社長の大きな右手が次第にゆっくりとした動きを伴い始め、染めた髪を指に絡めるように頭を撫で、さらに彼女の輪郭を確かめるように頬を包み込みはじめたことで――とうとうアユミの瞳から、抑え続けていた涙が止めどなく溢れ始めた。
大きな左手に包まれていた玲さんも、それまでツンと尖らせていた口を段々と緩めはじめ、やがて「ふぅ」と息を小さく吐きながら、安堵しきった表情で受け入れていた。
窓際の白いカーテンを透過した光に包まれ、ただ静かに身を寄せ合う三人の姿は、いま肌を合わせていない俺にすら鼓動が伝播してきそうだった。
「……がんばって、よかったなぁ」
俺は天井を仰ぎながら、誰に言うでもなく自然と漏れた言葉を、そのまま口にした。




