73.瀬貝自工社長 『瀬貝カズオ』
“お前の親にはなれへんかった”
上ずって掠れた声を零し、唇を震わせる社長の姿は、静かな病室の中でたしかな輪郭を持ったその言葉が、間違いなく彼の積年の悔恨であったことを偲ばせた。
彼の身体に手を添えたまま硬直していたアユミは、その表情を陰に隠しながら――静かに大きく頷いた。
「……当たり前やんか。血、繋がってへんのやし……あんたの娘の代わりにはなれても、ホンマもんにはなれへん」
社長から与えられた無償の愛情に対して、かつて強い拒絶を示していたアユミは、あくまで淡々とした口調――しかし、表情を伏せるように俯いたまま答えた。
それからほんの少しの間、シリンジポンプと社長の深い呼吸の音だけが病室に響いた後、社長はふたたび口を開いた。
「……さっきも言うたけどな……お前がこの町で……キチンと生きられるよう、見守ろう思たんは……シュンの一言がきっかけ……や。まぁいわば、責任感の賜物や……」
「……うん」
「ちゅうても、はじめは……せいぜい逃げ道になる、部屋を用意しただけ……やった。あくまで、面倒見るんとちゃう……見守るスタンスやから……な」
零れた言葉のひとつひとつに頷くアユミをよそに、手元に落ちていた社長の光のない目線が、虚空を向いた。
「でも、ある日いきなり……アユミは言うたな。……『社長の仕事、ウチにも手伝わせろ』って……」
「……あぁ、言うた」
「ちょうどその一週間前やった……嫁が死んで、俺も玲も……それぞれが一人ぼっちになってしもたんは」
「え……」
「……玲は、俺と暮らすより……嫁の意志を継いで、京都の祖母の下で……暮らすことを選んだ……。そら当然やな……俺は、あの子に……長年親らしいこと、してやれてへんかった……」
社長は自嘲気味に笑った後――虚空を見上げたまま、深く息を吸った。
「――分かるか、アユミ。お前のくれた言葉が……どんだけ、俺の救いになったか……」
強い意志の籠ったその一言を耳にして、アユミは伏せていた顔を上げ、それをぶんぶんと左右に振った。
「……ちゃう、ちゃうんや。ウチ、そんなつもりで言ったんと……」
「それも分かっとった……この子が、今までそうやって……生きてきたんやって、こともな……」
「……そうや。そうやないと気色……いや、“怖くて”しゃあなかった」
「……せやから、俺は……親にはならんかった。もちろん……あの歳で、いきなり働かすわけにも……いかへんかったが」
「……あぁ」
「キチンとした飯の食い方に……身の危険を感じた時のどつき返し方……。それから金の使い方、そんで……16歳迎えてからの車のいじり方に……18歳迎えてからの車の転がし方。これはあくまで……いち自動車整備工場の、経営者として……ただ社会の生き方を……教えただけに過ぎひん」
「……あぁ。ウチはホンマに、感謝しとる」
アユミの頷きが、だんだんと大きくなっていく。
社長は、そんな彼女の顔より数十センチ横にずれた空間を向きながら、心許ない力を支えに全身を動かそうとした。
「クク……でもな、アユミ……。本音を言うと……あ、がっ……」
俺が止めようとする前に社長の全身が再び力を失い、顔を引きつらせながら首をがくんと落とすと、アユミは咄嗟に両手で上体を支えた。
輸液と胃瘻のチューブがグワンと振れ、器具の軋む音が響き、社長はわずかに呻きを漏らす。
しかし、それでも社長は構うことなく言葉を続けた。
「……なんべんも、お前を……娘に迎えたいと思ったことはあった」
「――」
社長の口から零れた本音を聞いて、アユミは目を見開き、俺には聞き取れない言葉を反射的に呟いた。
「……ダサいなぁ……言わんとこ思てたのに……。せやけど……言えへんまま墓に入るんは……やっぱり怖いわ……」
「……キキッ、くくっ……ホンマに、ダッサいなぁ」
アユミは笑いを振り絞るように全身を震わせ、やがて鼻の奥側を啜りはじめる。
寄り添う二人の呼吸が異なるリズムを生み、その間にも器具の揺れは自然に収まっていった。
社長はアユミの震えを肌でしっかりと確かめた後、更に続けた。
「……でも、やっぱりそれは……できん。俺は……玲にも、親らしいこと……してやれへんかった。……親の器やない……」
「……」
「お前は……もう十分……一人立ちできる……。何かあっても……傍にはシュンもおる」
「……」
「親子になることで……不幸を生む。一線は……超えたらアカン……」
社長の振り絞った一字一句に、アユミはただじっと耳をすませても、頷きはしなかった。
「……せやさかい、俺は……」
「――嫌やっ!!」
そして、アユミの腹からついに溢れ出した“叫び”は、それまで包まれていた静寂をつんざき、掠れ、濁って――何より澄んだ声として、この病室に響き渡った。
「ア、ユ……?」
「嫌やっちゅうとんねんアホッ! そんな大事なこと、ひとりで勝手に決めるなあぁ!」
アユミは啜る声を抑え、決して涙は流さなかった。
それを目にした俺は、彼女の叫びが“清算”ではなく、すがり付くような必死の“懇願”なのだと理解した。
「血の繋がらん親子!? あぁ、そんな何時もっぺん失うかも分からへんもん、たしかに怖かったわ……ウチはな! せやけど、あんたはそんなデリカシーやら理屈で、人と一線引けるような男とちゃうやろうが!?」
「……なにを言……」
「そんなあんたやから、ウチはずっと一緒におった! せやから、ウチがあんたのくれたもんを気色悪がって、髪染めたり反抗したとき――どついてでもええから、ウチを叱ってほしかったんやッ!!」
社長のパジャマを掴むアユミの手の周りに、深い皺がいくつもできていた。
見えていないはずの社長の薄く開いた目は、今はしっかりとアユミの声を辿っている。
「かんにんやっ……いつもいつも、アンタを困らしてしもて……! でも、でも……分かるやろ!? 分かってや、なぁ! なぁッ!!」
しかし、彼のおぼつかない両手はベッドから微かに浮いているだけで、所在なさげに虚空を彷徨っていた。
俺は、そんな光景に思わず歯がゆさを覚え、自身の拳を自然と強く握った――
「ほんまにその通りやわ、お父さん」
――そのときだった。
廊下の方から、聞き覚えのある凛とした女性の声がしたのは。




