72.プラッツ 『医療施設用電動ベッド アスピーノ』
ジ、ジジという、シリンジポンプの微かな音が支配する病室。
この半年であまりに変わり果てた恩人の姿が、今こうして目の前にある。
「……ん……」
俺たちの反応がないことに違和感を覚えたのか、社長がリクライニングで起き上がった首と上体をあてもなく動かすたび、社長の手首と繋がれている、二種類のポンプから伸びて途中合流したチューブがギシと突っ張った。
そんな姿を見て、俺はたまらず声を発した。
「社長、俺らです」
「……シュ……」
「そうっす。それと……」
そして、アユミが俺より前に出て、あくまで平静を保った口調でこう続けた。
「……しんどそうやな、社長」
そんな俺たちの声を耳にして、社長は「あ」「ゆ」と呻きを零しながらベッドにふたたび身体を預けて、細めた目をようやくこちらに向けた。
「……しんどい……ある……かいな……」
「強がんなて。なんかしてほしいことあるか?」
視神経脊髄炎――それは、視神経や脊髄などで起こる炎症によって神経細胞が破壊され、身体機能の障害や疼痛を引き起こす病気。
「倒して……くれ」
「……それはできひんわ。看護師もこのままや言うてはる」
この病気には大きな特徴がふたつあって、ひとつは一度悪化した症状は基本的に治せないということ。
「……ほな……ない……」
「ん……そうか」
そして、もうひとつは再発の度に、深刻な悪化が“上乗せ”されていくというものだった。
「……外、やかまし……なかったやん……け。シビッ……乗ってこうへ……かいな」
そんな中、社長は俺たちに想像しがたい痛みに抗いながらも、前のめりに会話を望んでいるようだった。
俺が東京から帰ってきた頃は、アユミと社長の関係はギクシャクしていると耳にしていたが……今のふたりの様子を見ていると、そんな雰囲気は微塵も感じない。
「ウチら、歩いてきたんや。シュンの家からずっと」
「……アホ……なんで……」
社長ははっきりと聞こえる『アホ』の後に、小刻みに震えながら口角を持ち上げた。
しかし、対するアユミは首を俯かせ、身体の前で絡ませた両手の指先をしきりに動かしながら、次第に呼吸が荒くなりはじめた。
そんなアユミの息遣いを間近で感じ取ったのか、社長の半開きだった瞼がさらに大きく開きかけたかと思えば、今度はそっと閉じられた。
「……かんにんな……」
――そして、先に口を開いたのは社長の方だった。
「……は?」
アユミは開きかけていた口を閉じ直すこともできず、生じた疑問をそこからただ吐き出すことしかできなかった。
「最初……会うてじっくり顔見たとき……ピンときたわ。この子が……こんな夜中に、ドライブインに来なあかんかったんは……俺が、蘇我の衰退……止められんかったせい、なんやと……」
ぶつ切りだった言葉が、少しずつ形を成すようになってきた。
しかし、それと比例するように彼の表情は強張り、いつしか脂汗が流れはじめていた。
「せやけどな……あ、ぐっ」
「なぁ……痛いんやろ。あんまし喋んなって……」
「ふーっ、ふー……っかましいわ……黙って聞いとけや。あの頃は……正直な、もう自工は諦めて、京都の嫁と子どもの所にって……そんなこと、考えとる時期やった……」
「……社長」
「どんだけ車直したかて……町はいっこうに良うならへん。俺の力なんぞ、たかがこの程度やったんやと……。せやさかい……ホンマはお前のことも……見いひんかったことにしよかと、思っとった」
社長の言葉を黙って耳にしているアユミの真剣な表情に、失望や諦観の様相はなかった。
そして、社長は見えていない目を天井に向け、さらに声を張り上げた。
「――シュン、お前や」
驚きを隠せなかった。
アユミと社長のわだかまりと向き合うこの空間で、まさか俺なんかが声をかけられるとは思っていなかった。
「……俺、ですか」
「……お前、あん時言うたなぁ……『こんな時だけ、いっちょまえに親の顔して』……なんてことをよぉ……」
「あはは……あの時はホンマに、すんませんでした。いくらなんでも、あんな酷い言い方は……」
「たしかに……あれはお前勘違いやったし、受けとる意味も違た……せやけどな。あの言葉こそが――燻っとった俺の魂に……火ぃ点けたんや」
「えっ!?」
俺とアユミは、ポカンとした顔で互いを見合わせた。
一方、社長の顎はだんだんと下がり、やがてやや俯き気味になりながら言葉を続けた。
「情けない話や……俺はこんなガキに、『こんな……小っこい子供すら苦しい思いしとる町を放っといて……よう自分の子供には親の面できんな』……て。そう言われたような気がした……」
その言葉を聞いて、まず俺はアユミが抱えていた罪悪感の根底が覆ったことに一瞬、嬉しさを感じた。
だが、それからすぐに俺は――全身の血の気が引いて、足下が覚束なくなる感覚を覚えた。
「社長……す、すんませんでしたっ!」
「……なんやな……お前、謝ってばっかしやんけ……。勘違いの件は、もう……なんべんも謝られとるがな……」
「いや、ちゃうんです……。この町に社長を縛ったのは、俺やった。俺が……社長と奥さんを、会えへんようにした……!」
自然と声が震えた。
そして、胃の奥から酸交じりの荒い息が溢れ、アユミを昨夜に襲ったであろう感覚が、今まさに俺の全身を侵そうとしていた――
「……やっぱし……玲から聞いとったんか……。こういう勘違いしよるから……黙っとったのに」
しかし、社長はあくまで平静だった。
いや、厳密には痛みを抑えているはずだが、その顔は明らかに微笑んでいた。
「事故は……関係あらへん。嫁と交わした約束の最終目標は……たしかに京都に一緒に住むことやった……。せやけど、逆に言えば……これは町に活気を取り戻せてへんのに……こっちに来んなっちゅう……互いに取り決めた結婚の条件でもあった」
「……社長。俺のために、嘘ついてませんか」
「んなわけあるか……アホ。嫁もたいがい変わり者でな……。あいつも大好きな京都を良うしたい……そんな想いが異常やった。俺らは、互いのそんな熱意に……相容れへんと同時に、惹かれあっとったんや……。玲には、最後まで……理解されんかったが……」
予想だにしなかった回答に、安堵よりもまず唖然とした気持ちが勝った。
アユミも同じ気持ちなのか、未だに理解が追い付いていない様子だった。
「つまり……感謝しとんのや……。俺が勝手に、弱音吐いてな……大事な決まりごとを反古にする前に……目を覚ましてもろたんやからな……」
でも、妙に納得がいった。
奥さんの顔は見たことがないけど、きっと似た者同士の、誇り高い夫婦だったんだろうなぁ、と。
「……すまん……話が、逸れ……ぐっ」
社長が話を続けようとすると、彼はまたしても全身を強張らせ、息を荒げながらベッドに身を預けた。
それを目にしたアユミは、すかさずパジャマに包まれた社長の身体に手を添えた。
「し、社長……っ」
「……かんにんなぁ、アユミ」
「いや、謝るとこちゃうやろ。無理に喋りすぎや、もう――」
「……俺はやっぱり……お前の親にはなれへんかった」




