71.クボタ 『プラスチック券自動販売機 PV300-17』
近年増築され、正面玄関が設けられるようになった第二病棟が洗練されていただけに、昔から存在するこの第一病棟が醸し出す古めかしさは、いっそう際立っていた。
グレーのテカテカなゴム床は所々黒ずんでいるし、天井はやたらと低いうえに鈍色の配管がむき出しになってるし、非常口と書かれた緑の看板にはピクトグラムすら使われていない。
「んぐっ……あむっ……ふんっ」
そんな第一病棟にある食堂の黄ばんだ蛍光灯にのっぺりと照らされて、アユミはトレーに乗った茶碗の白米と、ほぐしたサバの塩焼きを交互に、かつ勢いよく頬張っている。
かくいう俺も、手作り感満載の親子丼がやけに空腹に沁みて、ガツガツと食べ進めていた。
昨夜、あんなにゲーゲーと吐いていた彼女に、こんな普通の食事をさせて大丈夫なのかとはじめは心配していたが、それは杞憂であるとすぐに分かった。
道中で水分やお菓子をこまめに口にして胃を慣らしていたうえ、さっきまで病院前のベンチで人目も憚らず二人で眠ったことが幸いしたのだろうか。
それとも、単に“トラウマ”に触れていないからなのか――そこまでは分からなかったが。
「……なんやねん、シュン」
俺が親子丼の最後の一口を咀嚼しながらそんなことを考えていたら、突然アユミの箸が止まり、じっとりとした口調で話しかけてきた。
「えっ?」
「ウチのサバばっかり、けったいな目で見て……」
そう言われてようやく、俺は自分がずっとアユミの手元を凝視していたことに気が付いた。
「……やらへんで」
「いや、いらんて。そうじゃなくて……魚、綺麗に食べてるな思て」
長方形の皿には、のこり僅かとなった切り身と、取り除かれた骨やヒレが整然と分けて置かれている。
おおよそ魚のどこに骨があるのかを分かってる食べ方で、初めて会った頃はまともな箸の握り方すら知らなかった彼女が、今ではこうして魚を綺麗に食べられていることに新鮮な印象を抱いていた。
「……まぁ、みっちり教えられたし」
思わず『誰に?』と聞きかけたが、おおよその察しがついたのでやめた。
「そうか」
「……それより、親子丼どうやった?」
「え? あぁ、美味かったで。よう火通しすぎて卵固めにとじてあるし、病院のご飯やから薄味やけど……」
「ふぅん……」
今、アユミは財布を持っていない。
そして、こんどは最後の切り身と白米を口に含んだ彼女の目が、俺の手元をじっと見ている。
「……えっと。おかわり、親子丼がいいん?」
「カツ丼」
「えぇ……大丈夫か? いくらなんでも重すぎとちゃ」
「早朝来たのに面会14時からやったな」
「買うてきます」
俺は慌てて財布を手にして、席を立った。
そして、入口近くにある古い券売機にお金を入れてボタンを押すと、取り出し口からカチャンと音が鳴った。
何にしても、アユミにいつもの落ち着きが戻ってきているようでよかった。
玲さんから聞いている社長の現状を鑑みると、やはり少しでも平静でいられる心理状態であった方がいいはずだから。
そう思い、俺は取り出し口から緑のプラスチックプレートに白抜きで『かつ丼』と書かれた食券を手に取り、お渡し口へと向かった。
◆
「307……307……」
第一病棟の三階ナースセンターで面会用紙を記入し、音がキュピキュピと反響する長い廊下を歩く。
食器の片付けのためか、ずらりと並んだ病室前のあちこちに銀色の配膳車が置かれたままとなっていた。
ここは県北一帯のあらゆる患者が集まって来る大病院ということもあり、当然中はかなり広い。
窓の向こうの第二病棟を視界に入れると、こんな寂れた地方でも病室を増やさなくてはいけなかった背景が色々と見て取れて、なんとも言えない気持ちになった。
「……ここや」
307と書かれたプレート下の窪みには、手書きで“瀬貝カズオ”と書かれた紙の札が差し込まれている。
どうやら個室のようで、そこに他の人の名前はない。
一度アユミと顔を見合わせると、彼女は首を縦に振ったので、俺はゆっくりと病室のドアを開いた。
ドアを開けてすぐ、白いカーテンが入口と中を隔てていた。
そのカーテンの向こう側から、看護師と思わしき中年女性の声と――弱々しい男性の呻き声が耳に入った。
「瀬貝さん、フラッシュ終わりましたよぉ」
「……お……お……」
「また30分ほどしたらベッド倒しに来ますから、すこしこのままで我慢してねぇ」
「……あぁ……」
その呻き声は聞き覚えがあるのに、まるで別人のようだった。
息を呑み、思わずカーテンに添えた手の動きを止めた瞬間――カーテンはひとりでに開き、まずナースウェアに身を包んだやや大柄なおばちゃん看護師が姿を現した。
「あぁ、こんにちは」
「こ、こんにちは……」
看護師が銀色の台車を手で引きながら軽く会釈をしてきたため、俺たちも挨拶を返す。
「いま、胃瘻でお食事とってもらったところです。誤嚥の恐れがありますんで、ベッドは起こしたまんまにしといてください。また戻しに来ますんで」
その一言を残して、看護師はガラガラと音を立てながら部屋を後にした。
そして、視線を部屋奥のベッドに移すと――
「……誰や……」
そこには上半身にいくつかのチューブを繋ぎ、小さく呻きを漏らしながら、半年前の面影が残らないほど衰弱した社長の姿があった。
はっきり言って、俺が聞いて想像していたよりも酷い状態だった。
「……あぁ……あ……」
俺たちが言葉を失って立ち尽くしている間にも、社長は薄目を開けながらぎこちなく、こちらを見回していた。
「れ……い……?」
そして、その目線が誰もいない壁に据わった辺りで――俺は彼が、ついに光を失ってしまったのだと理解した。




