70.北陸製菓 『カレービーバー』
見上げた先の、木々の切れ目であまねく瞬いていた星々は、いつしか光を失いはじめていた。
そして、夜空はその星の光と引き換えに、息を飲むほど遠大な青い薄明のグラデーションを描き出していた。
冷えきった空気の中を夜通し歩いた俺の身体は、すでに足から伝わる痛みすらも受容して、右手に持ったライトが照らす、このどこまでも続くアスファルト舗装のアップダウンを越え――
そして、左手で握って繋いだアユミの手を引きながら、ひたすら前に進むことに適応していた。
夜の閑散とした山手の国道に、人間ふたりが身を寄せ合うこの心許ない状況の最中。
俺たちはカレービーバーをひとつずつ口に運んでは、控えめな塩味とピリリとしたスパイスのアクセントで空腹を誤魔化し、さらに軽いサクサクとした咀嚼で聴覚を満たしていた。
「……ちょっと明るなってきたな」
「……」
疲労から、言葉は互いに最低限しか交わさない。
ふたりで顔を見合わせることもない。
でも、そこに気まずさは不思議と感じなかった。
『ピッコリ』
道の脇の木々のどこかから、カレービーバーの音を上書きするほどによく通る、澄んださえずりが一度だけ響いた。
その瞬間、左手で引いていたアユミの手が重くなったのが分かったので、俺も自然と足を止めた。
『チュリーピリリッ。ピッコリッピッコリッ――』
綺麗な声の正体をなんとなく知りたくて、ふとライトを木に当てようとしたが、ライトはそっと押し戻されてしまった。
「……かわいそうやろ」
「……そやな」
俺たちはそう交わして、再び歩き出した。
『ジッ、ジッ』
『ニィー、ニィー』
『ツピー、ツツピー、ジュルル』
『ギーッ』
頭上と脇から響き渡る声は、次第に増えはじめている。
空を覆う薄明が、深い青からじんと光る薄いオレンジに変遷をはじめても尚、山の麓はまだ人間のテリトリーにはなり得なかった。
「……怖いな」
「……うん」
握った手の微かな震えが伝播したからだろうか。
その言葉を口にしたのは、俺の方だった。
「……でも」
「……でも?」
「なんか俺、この時間は好きや」
アユミの返事はなかった。
ただ左手を握り返す力が、ほんの少し強まっただけだ。
眼前には、またしても上り坂が現れた。
それと同時に、背後から数十分ぶりに聞こえたロードノイズがだんだんと近付いてきた。
やがて脇の車道を一台の“三ツ木総合医療センター”と書かれたバンが通過したかと思えば、それは悠々と上り坂を越えて走り抜けていく。
空のほとんどがオレンジをコアとした暖色に染まり――まもなく、煌々と白く燃える朝日が坂の頂上から姿を現した。
ほぼ黒一色だった木々の葉やひび割れたアスファルトが、本来の輪郭と色を前から順番に取り戻していく。
俺たちのボロボロに破れたマウンテンパーカーやズボン、ソールの外れた靴の全容も露となり、これまでの道のりを嫌でも振り返らせる。
そして、坂を上りきった瞬間――れっきとした人の町を擁した平地のパノラマが視界いっぱいに広がり、やがて視線はその中心近くに聳える、二棟に分かれた大きな建屋に据わった。
「……見えた」
思わず漏れた一言の後、アユミの手を引いていた左手の腕が、だんだんと後ろから真横を向いた。
視線を左隣に移すと、自然な明るさの下では数時間ぶりに目にした――意を決したように息を呑む、アユミの姿があった。
「……行こか」
ふたりの足が下り坂を踏み出したのは、同時だった。
◆
「なんや君ら、夜間救急の入口探しとんのか!? そんなとこで待っとっても、9時まで開かへんで!」
比較的新しく建てられた病棟のガラス張りとなった綺麗な正面入口の前で、地べたに座り込んでいた俺たちの姿を見るなり、ホウキとチリトリを持った制服姿の警備員のオジサンが、大きな声で話しかけてきた。
それに対し、アユミは首をかしげながら答えた。
「き、救急……?」
「どっからどう見ても怪我人やろ君ら! なんや、何があったんや、アベックで喧嘩勃発か? ガハハ!」
「いや、ウチら別に怪我は……」
アユミの返答に“アベック”という言葉への否定がなかったことに心をポワポワさせている傍ら、警備員はせわしなく喋りかけ続けていた。
「痴情のもつれとも怪我ともちゃう……そしたらお産か、赤ちゃんか!? ちょっと待っとり、先生すぐに呼んでく」
「いや、違ごて……」
この令和の時代にマイウェイを突き進むオジサンの爆弾発言は一周回って清々しいが、これ以上好き放題話されると今度はアユミが爆発しかねないので、俺は話に割って入ることにした。
「あの……俺ら面会で来さしてもらったんです。まだ時間早かったんで、ちょっと待たしてもらってただけで……」
「なんや面会かいな自分ら。いうても、面会は14時からやで」
――えっ。
「……14時?」
「はっ、知らんかったんかいなアホやなー。それやったら悪いこと言わんし、いっぺん帰っとき~」
警備員のオジサンはそう言い残して、歌謡曲の鼻歌を歌いながら植込み周りの歩道の掃除を再開した。
俺は冗談か何かだと思って、玲さんにもらった紙を見直した。
「なになに……“面会はマスクをご着用のうえ、14:00~17:00の間にお越しください”……」
「……シュン」
俺は「あー……」と言葉を零しながら、恐る恐る隣に目線を移す。
視界にチラリと映ったアユミの拳は、プルプルと震えていた。




