69.BRAIN 『熊よけホーン110db』
「――ごめん、アユミ。それはちゃうと思う」
それは、アユミの『ぜんぶウチのせい』という言葉を耳にした途端、俺の口からひとりでに飛び出した。
それまで鳴き交わし続けていたフクロウの鳴き声がふっと消えて、一瞬呆気にとられていたアユミの眉間に、みるみる皺が刻まれていく。
無理もない。
たとえ、彼女の論理が飛躍した解釈だとしても、こんな時に“否定”の言葉を挟んでしまうなんて……どう考えたって、さっきのやりとりの二の舞だ。
「……だってあの時、俺も一緒に社長から“温さ”を受けとっとる」
分かってはいるけど――それでも、やっぱりアユミ一人にこのまま背負わせるなんてことは、俺にはできなかった。
「せやからもし、“温さ”を受けとったこと自体が罪なんやったら、俺も同罪ってことになる。ぜんぶアユミ一人のせいなんかとちゃう」
「……んなわけあるか、ダボッ!」
アユミは憤りに任せて涙を弾かせながら、俺に向けた言葉をとことん尖らせはじめた。
「そもそも、シュンにはとっくに善良な両親がおった! 社長の“温さ”なんぞ元々必要としとらんかったし、手も煩わせへんかった自分が、ウチと同罪や!? 笑わせんな!」
「あぁ……そうかもしれん。せやけどあの晩、同じテーブルで、社長がわざわざ俺にうどんを食わしたことにだって……きっと何か意味があるはずやねん。それが分からん以上、俺が無関係やとは言えへんはずや」
そう、社長に直接聞きたいことがあるのは、何もアユミだけじゃない。
俺だって、人生を変えたあの夜に、まだまだ謎を残してきたままなんだ。
「……関係あらへんわ、ハナから人間らしい生き方さしてもらっとったシュンには! 一緒にすんな……一緒に、せんといてや……!」
「人間らしいて……えっと、アユミそれは」
「……もうええ!」
アユミは弱々しく明滅するライトを手にして激昂したまま、俺に背を向けて思い切り走りはじめた。
あぁ、やっぱりこうなってしまった。
譲れなかった事とはいえ、今のアユミを一人にするのは絶対にまずい。
慌てて彼女を追いかけようとした瞬間、元々疲労困憊だった足が言うことを聞かず、もつれてその場に転んでしまった。
「痛ッ……」
このわずかな時間に、アユミの姿は道の先に広がる闇の中へと消えていた。
最悪だ……明かりが見えないということは、どうやら彼女が持っていたライトの電池もちょうど切れてしまったということだ。
幸い、この道に沿って進んではいるはずだから遭難の可能性は低いが、それでも危険なことに変わりはない。
悲鳴を上げる体に鞭を打つように、俺は頭の中に『人間らしさ』という言葉を繰り返し刻んだ。
「ま……待って!」
足を踏み出すたび、靴底の磨り減った足裏に痛みが走る。
呼吸をするたび、肺の中を焼くような熱い息が循環する。
ライトの照らす世界は揺れに揺れ、顔に小虫が何度も当たったが、それでも構わなかった。
ひたすら全力で走って、走って――
「うおっ!?」
――突然、地面に尻餅をついて、動けなくなっているアユミの姿が眼前に現れた。
俺はそれを咄嗟に避けて、またしても前倒しに転んだ。
着ていたマウンテンパーカーの裂ける音が聞こえ、痛みを感じる間もなく、ここで何かあったんだと咄嗟に身構える。
ふと脇を見やると、“クマ出没注意”と書かれた看板が視界に入った。
そして、無意識にライトを消した後、そのまま再び聴覚が研ぎ澄まされていった。
やがて一寸先の闇の中で、枝を踏み折る音が数回。
そして、鈍くヴーッと響く生き物の“警戒音”が複数聞こえた。
まさか、本当に……。
「はぁ……はぁ……」
幸か不幸か、アユミを避けて転んだことで、いまは俺の方が体が前に出ている。
もしこいつが本当に危険な動物だった場合、スプレーを持っている俺が何とかしている隙に、アユミを後ろに逃がすことはできる。
そう思い、バッグからスプレーを取り出すと――すでに液漏れしていたそれは、完全に軽くなってしまっていた。
「嘘やろ……」
思わず弱音が漏れた途端、じんわりと足から力が抜けていく感覚に見舞われた。
もしかすると、もう家には帰れないのかもしれない。
そう思うと、自然と視界が滲んでぼやけていくことすら、もはや情けないとは感じなかった。
「アユミ……逃げて」
俺は、アユミの方を振り向くことなく、なるべく平静を装いながら呼び掛けた。
彼女の最後に残る俺の記憶が、こんな顔なのは嫌だったから。
俺はこちらに注意を引く意図でライトを点け直し、意を決してそれを思い切り振り回した。
そして、バッグの中の熊避けホーンを取り出し――『猛犬』と書かれたボタンを押した。
「おぉい! こっちやぁ!」
『ワンワンワン!』
そして、振り回したライトが照らし出したのは、人ほどの高さの身体、よっつの足――
「うおおぉっ!」
『ワンワンワン!』
――そして小振りな角を持った、ただの三頭のシカでした。
「……」
『ワンワンワン!』
一瞬だけ白く反射したその目は、アスファルトに伏せて間抜けなポーズになっている俺を、どこか怪訝そうに見下ろしているように感じた。
『ワンワンワン!』
そして、録音丸出しの音割れしたワンちゃんの声のリピートが虚しく響き渡るなか、シカたちは何事もなかったかのように山へと帰っていった。
あまりにダサすぎる今の自分を俯瞰しながら、俺は無言のままホーンのスイッチを消した。
「……シカでした」
やり場を失った気持ちがとうとう言葉になり、それを向ける相手を探すように、俺は自然とアユミの方を振り返った。
「……アユミ?」
「……グス……うっ、あっ……」
視線の先にいたのは、先と変わらず腰を抜かしたまま、両目から大粒の涙をポロポロと溢す――等身大の人間そのものだった。
「……そんなに怖かったんか」
想像の中で一度死んだ俺に、もはやデリカシーなんてものは残されていなかった。
アユミに向けて直球ワードを投げかけた直後、彼女は涙を拭いながら「こうゃくにゃっ……」と言葉を噛んだ。
流れる静寂の中、遥か遠くでフクロウが『ホッ』と一度だけ鳴いた。
そして、アユミは拭いきれなかった涙を再び頬に伝わせ、乱れた呼吸をひふひふと精一杯整えてから、無茶苦茶な抑揚のままふたたび口を開いた。
「こわっ、くないっ、わっ」
「えっ……うん……」
「びっ、びびっとんはっ、シシュンやた、やんかっ」
「……うん、ごめん……」
実際、俺もさっきの涙をまだ拭えておらず、立ち上がれないので、おあいこと言えばおあいこだった。
「ぐすっ……あぁっ……」
あくまで強がるアユミを見て、俺はあることに気がついた。
初めて彼女が涙を流す瞬間に立ち会ったとき、俺はそれをなんだか触れてはいけないもののように感じていた。
でも、今では不思議とそう思わなくなっている。
こうして泣いてないフリをしながら泣きじゃくるアユミに、どこまでも人間的な魅力を感じて、愛おしくて仕方がない。
「……うん、マジで怖かった。俺はバチクソ怖くて泣いてもうた……」
「……ぐすっ……」
俺は、頬の熱いものをボロボロになったマウンテンパーカーの袖で拭い、匍匐でアユミに近づいた。
「……もうライトも一本しか生きてへんし、一緒に行こ。山の夜道は……人間ひとりやと、越えるのはやっぱ怖いわ」
本人が今でも頑なに認めていなかったことには驚いたが、実はアユミが“人間らしさ”を取り戻せていることなんて、とっくの前から知っていた。
なぜなら広島のラブホテルで、すでに彼女自身が『怖い』という言葉を口にしていたからだ。
「いまどっちが人間らしく生きとるかなんて、考えとる場合ちゃうな……もう社長にぜんぶ聞いたろうや。それまでは、この怖い道を抜けるの最優先な……」
俺の心からの提案の直後、アスファルトを撫でるような一筋の夜風が抜けた。
それが木々の葉を揺らし、身の毛のよだつような音を一帯に響かせると――アユミは目をぐっと瞑りながら、小さく呟いた。
「……しゃーなしや」




