68.三立製菓 『源氏パイ』
「そ、そうかぁ。縁切った方かぁ……」
俺が言葉を返した刹那、ガードレール脇の草むらから『ジィーッ』と鳴る虫の声が割って入った。
自分でも驚くほど間の抜けた返事だと思ったが、正直これは無理もないだろう。
なにせこの長い付き合いの中で、おそらくアユミが意図的に触れてこなかったであろう実の両親の話を、あまりに唐突に切り出されたのだから。
「……でもな。それはあの人が自分で買ったもんやなくて……ぜぇんぶ、お客さんからもらったもんやった」
しかし、アユミは構うことなく続けようとした。
目には涙を溜めたままで、声の抑揚すらまだ安定していないのに。
「せやからな。ウチは……」
「なぁ、アユミ……なんも無理して話すことないんやで。その、なんというか……」
そんなアユミの顔色を窺ってふと零した俺のひと言に、彼女が眉間に皺を寄せるさまがすぐ目に飛び込んできた。
「……聞きたなかったら、さっさと帰りや」
そして、唸るような声でそう吐き捨てながらベンチを立ち上がり、足早に歩き始めた。
――しまった、かける言葉を誤った!
俺はアユミの背中を、ワンテンポ遅れて追いかけ始めた。
「ま、ちょっ! ごめん! 聞く、聞くからっ」
自身の口から発した失言を悔いている間も、取り繕う言葉を考える余裕もない。
俺はただただ、アユミが離れていかないように追いすがるのに精一杯だった。
「はぁっ、はぁっ……それで! アユミの……元オカンがもろたお菓子が、どうしたんやっ」
そんな必死な姿が、どう彼女の目に映ったのかは分からない。
ただアユミは、俺がバス停裏のクスノキから落ちた葉を踏みつけながら、彼女のそばに辿り着くまでのほんの少しの間だけ、黙って足を止めてくれた。
そして、ふたたび足早な移動を始めるとともに、小さく息をついたあと独り言のような語りを続けた。
「……せやからウチ、菓子がある間は……腹膨れるから、別に来る必要なかってん。わざわざ、ドライブインまで……」
怒りに身を任せた直後の引き潮なのだろうか。
口にはしないものの、アユミの口調はさっきとはうって変わって、どこか申し訳なさを孕んでいるように感じた。
同時に、ここにきてようやく俺は、彼女自身も抑え続けていた胸の内を吐き出し続けることで、心のペースをなんとか守ろうとしているんだと察した。
しかし今は、社長と繋がりのあるものを意識的に断っているからだろうか。
結果として、俺たちが知り合う以前のことを打ち明けることでしか、今のアユミに自分を守る術がなくなっている……のかもしれない。
「……せやけど、蘇我入温泉のソープ街がなくなって……あの人が何番目かも分からん男をアテにし始めたそん時から……家に置かれるもんが、菓子から小銭に変わった」
そうでもなければ、こんな惨い記憶――きっと、アユミは忘れていたかったはずだ。
「そか……そんでうちのドライブインまで来ることなったんやな。でも、怖くなかったんか? こんな夜道歩かなあかんの……」
「さぁ、分からん。でも……ウチが家におって、男の機嫌でも損ねたりしたら……めんどいやんか」
アユミの歩行ペースは落ちる気配がまるでない。
だが一方で、彼女の手持ちライトの光量はさっきよりも少しだけ弱まりはじめていた。
「それに……やっぱし腹は減るし、お巡りに見つかっても……後々、何されるか分からへん。せやから、その方が何かと都合がよかった」
ただこうして聞いてるだけで、本当にいいんだろうか。
そんな焦燥もありはしたが、もうさっきと同じ轍は踏みたくなかった。
――何より俺は、それまで“なんとなく察していた”くらいの認識だったアユミの生い立ちが輪郭を持ったことで、それがどう今の状況に繋がっているのかが、純粋に気になっていた。
「……あとは、知っての通りや。ウチとシュンが最初に話したとき、たしか聞いてたな……『知らんオッチャンに声かけられて、怖ないんか?』って」
懐かしい記憶をたどり、今でも鮮明に思い浮かぶ光景。
深夜のスナックコーナーで、気まずい思いをしていた俺と、俺たちに背を向けてうどん自販機に硬貨を入れていた社長。
「あぁ、そういえば……アユミに聞いて、シカトくらったん覚えてるわ。まぁ……別に怖くなかったんやろうなって、思ってはいたけど」
そして、テーブルを挟んで向かい合わせに座っていた――
「……あれな。ホンマに分からへんから、ウチは答えられんかってん」
「えっ」
「だって……どっちでもよかったし。そんなんいちいち考えてたら、食えるもんも食えへんやんか」
アユミは呼吸をわずかに乱しながらも、まるでなんてことないかのように話す。
しかし、俺はライトに次いで、今度は彼女の歩行ペースが徐々に落ち始めていることに気がついた。
「……どう考えても、釣り合わへんわな」
「……アユミ?」
彼女の手持ちライトが明滅をはじめ、電池があまり持たないことを示した。
「アホやなぁ……。仲良う一緒に過ごせるはずやった本物の家族と……こうして家族にも必要とされんかったポン付けの余所もんなんて、どう考えたって……」
そして、アユミはついにピタリと足を止め、こちらを振り返った。
「いま思えば……ウチはあの時、うどんなんて受け取るべきやなかった」
「……おい、なに言ってんねん」
アユミが言葉につまるたび、道の山手からフクロウのつがいが『ホッ』『ホッ』と鳴き交わす声が一帯を支配する。
「あそこでウチが、“温さ”を受け取ってしまったせいで。社長はもっとウチにぎょうさんの“温さ”を与えようとして、町を離れられへんようになった」
木々の隙間から差し込んだ月の青い光に照らされ、溜めていた涙を押し込めた灰色の目は――
「奥さんが社長に会えへんまま逝ったんは、ぜんぶウチのせいなんや」
――玲さんの告白を耳にしたとき、彼女が気が付いてしまった絶望の深さを、あまりに雄弁に語っていた。




