66.東芝 『AW-70GM』
それからトイレのドアが開いたのは、窓の外で夜の帳が下りた頃だった。
「……ウチ……せ……」
アユミは水で濡らした口を拭うそぶりも見せず、ただか細いうわ言を零しながら、汚れた服のままフラフラとした足取りでトイレの外へと踏み出した。
すると、彼女はトイレと店内を仕切る段差に容易く足をひっかけ、バランスを崩して前倒しになりかけた。
俺が咄嗟にその前方に入り、辛うじて身体を支えると――アユミはそのまま両手を俺の背中に回し、すがるような力で身体を締め付ける。
「……ゲホッ、ゲホッ」
ネイビーのシャツが汚れることなど厭わず、俺はアユミの身体をぎゅうと抱き締め返した。
彼女の温かい背中に触れた手には、早すぎる心音と乱れた呼吸による、不規則な鼓動の上がり下がりが伝わってくる。
「……歩けるか? 部屋行くで」
この様子のままアユミが夜勤に入るのは無理だ。
彼女を部屋まで送るため、腕を肩に回し、隣に寄り添いながらゆっくりと足を運び始める。
「……か……んや……」
その間もずっと、彼女はボソボソと小さく言葉にならない言葉を吐き出し続けていた。
ホンマにいったい、何があったっていうねん。
◆
屋外の自販機コーナー奥側にひっそりと置かれた洗濯機は、すでに動きを止めていた。
4月といえど夜はまだ寒さが残り、洗濯槽から取り出したキティちゃんTシャツとネイビーのシャツに残る湿った温かさが、今はただありがたかった。
アユミは部屋にたどり着いた後もしばらく虚脱状態が続き、服を着替えさせて眠りにつかせるまで、相当時間がかかってしまった。
オトンとオカンに簡単な説明をしたこともあり、そんなこんなで現在の時刻はすでに夜中の1時を回っている。
周辺に民家のないような場所で、昼夜関係なしに光を放ち続けているドライブインだからこそ、こんな深夜の洗濯なんてことが許される。
俺は他のズボンなども含めた二人分の服をハンガーに通し、それをすぐ近くにあった物干し竿に掛けながら、ひとりごちた。
「……言わん方がよかったんかな」
――絶対にそんなわけはない。
たとえ今でなくても、聞いた以上はいつか話さないといけないことだった。
だけど、さっきのアユミのパニックを目撃した動揺は、無意識にそんな言葉を零してしまうほどに、俺の胸中を刺して回っていた。
「8年前……」
アユミがこのドライブインに来るようになったのは、今から約10年も前のこと。
そして、瀬貝自工の休憩所がアユミの避難場所となったタイミングが、たしか9年ほど前だったはずだ。
もし、それが今回のパニックに何かしら関係しているのだとすれば――
「……え?」
俺の推測が仮説を組み上げるよりも前に、中に入ろうと入口のドアノブに手をかけた瞬間――驚きが脳内を上書きしてしまった。
窓から中を覗いたとき、テーブルに置いた自販機のうどんを前に、さっき寝かしつけたはずのアユミがスナックコーナーの椅子に座っている光景を目にしたからだ。
しかし、その息遣いは依然として粗く、肩を呼吸のたびに激しく上下させながら、割り箸をグーの手で握ったまま震えて固まっているようだった。
「お、おはよう。早起きさんやな、もう目覚ましたんか……」
ドアを開けてアユミに話しかけるも、彼女は「あ……」とだけ零し、見開いた眼をうどんに向け続けていた。
そして、どれだけ様子を窺っていても、アユミは最後までうどんに手を付けることがなかった。
「……きひん」
アユミはその一言とともに、うどんの入った丼と割り箸を突然テーブルの外に向け、思い切り手で弾き飛ばしたかと思えば、夕方と同じように椅子を蹴飛ばし、今度はドライブインの入口に向かって駆けだした。
「お、おいっ!?」
ゴム床に散乱した麺や汁を横目に、俺もアユミの背中を慌てて追いかける。
ドアを閉める間もなく外に飛び出して、まもなく闇夜の中で、アユミがシビックに向かって駆けていく姿が視界の隅に入った。
おそらく、VTECで“叫び”を発しようとしているんだ。
――こんな状態で運転なんて、絶対にアカン!
そう思った刹那、シビックの運転席に転がり込んだアユミに追いすがろうと、血の気の引く想いで助手席側のドアを開ける。
急いで助手席シートに膝を置き、身を乗り出してアユミの右腕を掴んだ瞬間――
「オエッ……オウ……エッ……ウエ……」
――彼女はキーを差し込んだ手に力を込め、震えたまま、もはや何も出なくなった胃の底から空嘔吐をはじめた。
「アユミ、大丈夫や、大丈夫ッ」
必死にかけ続けた声に反応したのか、結局回すことのできなかったキーから、アユミの手が脱力とともに離れた。
そして、とうとう項垂れるようにハンドルに上体を預け、背筋を丸めはじめた。
俺自身もパニックで動揺しつつ、そんなアユミの背中を何とか手でゴシゴシとさすった。
「……きひ……できひん……っ」
アユミの悲痛な呻きと、顔を伏せた彼女の震えと空嘔吐は、次第に啜るような嗚咽へと変わっていった。
このままでは、アユミは脱水症状となってしまう。
俺は背中をさすりながら、差し込まれたキーをそっと抜き取り、囁きかけるように口を開いた。
「水、とってくるわ……ここでじっとしとり。すぐ、戻るから……」
アユミは何も答えず、すすり泣くことをやめなかった。
いったんシビックを出て、ドアを閉めた俺は、ここであることに気が付いた。
食べられなかった自販機のうどんも、キーを回せなかった車も。
これらはアユミと社長、ふたりの繋がりを決定的なものにする、何よりも大切な象徴だったはずだ。
アユミがそれらを受け付けなくなったということは、つまり――
◆
「……お待たせ」
少しの時間が経って、再び助手席のドアを開けると、アユミはさっきと同じハンドルに突っ伏した体勢のままだったが、その嗚咽は止んでいた。
「……かんにん……シュン」
そして、掠れきった声で俺の名前が呼べる程度には、落ち着きを取り戻していたようだ。
心の底から安堵を覚えながら、冷蔵庫にストックしてあったペットボトルの水を持つ手の小指で、彼女の背中にツイツイと触れた。
「ええよ。こうなってしもて、部屋の中でじっとなんて……しとれんよな」
俺の返答を聞いたアユミは、目を腫らしたままの顔を上げ、差し出した水をゆっくりと受け取った。
そのままペットボトルに口を付けた彼女の様子を見届けたのち、俺は部屋から取って来た――瀬貝自工で玲さんから受け取った、一枚の紙に目を通した。
「……市立三ツ木総合医療センター、307号室……やってさ」
アユミはペットボトルから口を離し、声を失ったまま視線を手元に落としている。
どうやら、俺の言葉の続きを待っているようだ。
「こっから21㎞……あははっ。ゆっくり行ったら、ちょうど朝ちゃうかな。でも……もう、ホンマのこと本人に聞くしかあらへんしな」
発言の意図が汲み取れていない様子で、輪郭の定まらないアユミの目がこちらを向いた。
「それ飲んだら行こか――いっしょに、歩いて」




