65.スズキ 『キャリィ660』
夕刻の帰路の途中、ガードレール外に植えられた一本の桜の木がフロントガラスの向こう側に現れた。
ほとんどが緑の葉に置き換わっていたそこから、通り過ぎざまに一枚のピンクの花びらが舞い落ちて、眼前のガラスにぺたりとついた。
そして、車が生み出す風力によってそれは間もなく引きはがされ、どこか後方へと飛ばされていってしまった。
軽トラに差したオイル添加剤のおかげか、下り走行でギアを落としていても、車内に響くエンジンの音はいつもよりたしかに静かな気がする。
『――せやさかい、私は車も、父も、そして父を縛り付けたこの町も……ぜぇんぶ嫌い』
『アユミさんも、シュンくんのドライブインに閉じ込めといてくれはると嬉しいわぁ』
『キツい言葉ばっかりでかんにんです。でも、今は――』
そのぶん、玲さんがあの後に零した言葉の数々が、未だにはっきりと意識の中で反響を続けている。
俺は目を逸らすようにして、不意に助手席の座面に置いた一枚の紙を見た。
そして、すぐに視線を前方へと戻した。
◆
ドライブインに到着し、軽トラを下りると、軒先のツバメの巣に自然と目が行った。
下から眺めていると分かりにくかったが、ここ数日以内のいつの間にか、卵がすべて孵っていたらしい。
巣の縁から時おりシワシワなヒナが五羽ほど、もぞもぞと顔を出しては、親ツバメが帰って来るたびに弱弱しく口を開きながら、虫を口移しされる様子が見られた。
ドアを開くと、スナックコーナーのハンバーガー自販機の前に、下ろした髪にキティちゃんTシャツとドルフィンパンツ姿で、ラフな装いのアユミがいた。
「ん、でけたで坊」
ヒーターの温めが悪かったのか、彼女はちょうど自販機の蓋を閉め、以前もハンバーガーを食べに来ていた子供と、今度はおばあちゃんではなくお母さんと思わしき女性とともに再稼働の様子を見守っていた。
やがて、ニキシー管表示器が“00”を示し、取り出し口にコトリと音を立てて落ちてきた箱を子供が触って、一瞬で手をひっこめた。
「あっちい」
「ふふ……気ぃつけや。お姉ちゃんが直してくれたから、ちゃんと温まってよかったなぁ」
「……また、何でも言ってください」
「おおきにな、アユミちゃん。ほい、さいくんもありがとう言いや」
「あいあとう」
「どーいたしまして」
子供のお礼を受けて、アユミは微かにほほ笑んだままこちらを振り返った。
「……っ」
――俺、今どんな顔してるんだろう。
アユミは俺の姿を見るなり、一瞬目を見開いて硬直して。
そして、すぐに微笑みを作り直した。
「……おかえり」
「あ、あぁ……ただいま」
たどたどしく挨拶を交わすと、俺は彼女に促されるようにして、テーブル席についた。
それと入れ替わるようにして、さっきの親子が「もうそんだけにしときや、晩ごはん食べれへんようになるで」「むー」とやりとりする声が背後から聞こえたかと思えば、それはやがてドアの閉まる音とともに消えた。
「……大丈夫か?」
「……うん。大丈夫や」
いや、本当に大丈夫なんだろうか。
こんな話を、包み隠さずアユミに話しても。
「……説得はできひんかったみたいやな」
「……うん」
でも、俺は話さなくちゃならない。
アユミの目と耳になると約束した以上、それだけは違えちゃいけない。
◆
「――これで以上や。こんな状況やから……少なくとも今日は、説得には持ち込めへんかった。また、あの人が落ち着くタイミングでもっぺん行かなあかん」
玲さんから聞いた、これまでに彼女の身に降りかかったできごとを、俺はすべてアユミに話した。
彼女はいつものように表情を変えることなく、真剣に話を聞いてくれた。
「……おおきに、シュン。それは、しゃあなかったと思うわ」
しかし、どうやら話の最後のある部分で引っ掛かりを覚えたようで、アユミは労いの言葉を零しながらも、視線をテーブルに落として何か考え込むように俯き始めた。
「アユミ、どうしたんや」
「……なぁ。その事故があったんが何年前のできごとやったか、もう一度教えてくれへんか」
「……8年前やって」
「8年前……」
アユミは言葉を何度か繰り返したあと、プラスチックテーブルに置いた手の指をせわしなく動かし始めた。
秒数を刻むより早くトントンと叩かれる指の音が、無限にも思える時間を生み出す。
そして、ほどなくして音が止んだかと思えば――
突如、アユミは目を見開き、勢いをつけて席から立ち上がった。
「……アユミ?」
アユミは呼びかけに答えることなく、ガタンと音を立てて倒れた椅子を直すこともせず、手で口を押さえたまま店の奥に向かって全力で駆けだした。
俺は状況を理解しきれないまま、ゲームコーナーにいた複数の客の視線を感じながらもその後を追いかけ――
やがて強い勢いでバタンと閉められた、トイレのドアの前にたどり着いた。
『お……ゴエッ……ゲホッ、ウェエ……ケホッ』
刹那、ドアの奥から激しい嗚咽と、数回の水音が聞こえた。
合わせて、俺自身の心音も激しく高まっていくのを感じる。
『し、しゃ、し……社長……こ、ここ……こ、縛、ば』
アユミの“言葉”となった声は、ただそれだけだった。




