64.瀬貝家長女 『瀬貝玲』
「まず誤解なきよう、最初に申し上げておきます。この会社を畳む決断を下したんは――私やのうて、父自身です」
曲線デザインが多用された重厚な車内の助手席から、玲さんは目線を真っすぐこちらに向けながら、淡々と語りはじめた。
「私が伊澤先生と接触して、リゾート開発の用地としてこの土地の売却を提案したんも……すべて、身体を悪くした父に代わって意志を伝えたに過ぎひんのです。ですからもし、私が父の会社を売り飛ばそうとしてるいけずな人間やと思ってはったら……それは大きな誤解です」
「……すみません。正直、はじめはそう思ってました。社長がどんだけこの町と会社を愛してはったかはよう知ってますし、自分たちがこの町のどれだけ重要な立ち位置にいるんかも、ぜんぶ分かってたはずの人が……こうもあっさり店畳むなんて、どう考えてもおかしいし」
俺の返答を耳にした彼女は「愛してはった、ね」とだけ呟いて、窓の外の建屋がある方に視線を逸らした。
その様子に引っ掛かりを覚えながらも、俺はそのまま言葉の続きを口にした。
「それに俺、玲さんと初めて会うた時。アユミのことをその……あんな散々にひどく言った人やから、絶対“悪い人”やと思ったんです」
“悪い人”という言葉に反応して、玲さんは視線を俺から外したままクスリと静かに笑った。
「……やけど、最近はそうとも言い切れへん自分がいて、なんかよう分からへんのです。この間レストランで会うた時なんかも、はじめは何か言ったろって思ってたのに。いざ玲さんのオフの様子を見ると……なんていうかその、この言葉選びが正しいのかは分かりませんけど……『あっ、このひと人間だ』って思っちゃって」
「プッ……ふふ、あははっ。そりゃ私かて人間ですよっ」
「あっ、ごめんなさい……俺、決してそういう変な意味で言ったんじゃ」
「べ、別に怒ってへんし大丈夫ですよ……ククっ。ほんまに、なんか面白くてつい……あははっ」
先ほどの静かな笑いに次いで、今度は朗らかに笑い始めた玲さんは、本当に怒っているわけではなさそうで、心底安堵した。
そして、彼女はひとしきり笑った後、落ち着いた様子で言葉を零しはじめた。
「じゃあ……ここからは事実の羅列ではなく、ひとりの人間“瀬貝玲”としてお話をさせていただきます」
「え……」
「たしかに、会社を畳む決断を下したのは父ですが――その背中を強く押したのは、私です」
彼女の鈍色の瞳が、もう一度まっすぐ俺を見つめ直した。
「いったい、なんでそんなことを……」
「……“竜頭蛇尾”なんて言葉がありますよね。あれは、身の程を弁えへん父のために存在する言葉なんかもしれません」
「……玲さん?」
「あの人は昔から大層な夢を見がちで……自分の力でなんもかんもやれると思い込んだ挙句、そのくせ引き際も見定められへんまま、最後には何も成せんとみぃんな不幸にする……。その程度の器しかあらへん男なんです」
玲さんの口から溢れてくる言葉は、どれも直接表現を避けがちな彼女のそれではなく――そしてアユミを指して吐いていた毒とも異なる、極めて明確に向けられた敵意だった。
「せやさかい、私が父に……本当の引き際を教えて差し上げたんです」
しかし、そうやって恩人のことを蔑まれているにも関わらず、不思議と怒りは湧いてこなかった。
俺はただ、その敵意の理由がどうしても知りたい。
そうなるに至った玲さんの心の内を、純粋にもっと知りたいと思った。
「……お父さんのこと、嫌いなんですか」
「さぁ、どうでしょう。ほんまに嫌いなんやったら……父が倒れたからいうて、わざわざ京都の本業を手放してまで、この町まで来いひんかもしれませんよ」
ここに来て、笑みを浮かべながらも未だにはぐらかすスタンスを取ろうとする彼女に、俺は少々むっときた。
「何があったんかは知りませんけど……絶対、嫌ってますよね。そんで、そんなお父さんが大切にしてるアユミも、一緒に嫌ってる。ちゃいますか?」
「うぅん……そうですね、それもちょっと違うと思います……」
玲さんは助手席のリクライニングをいきなり倒し始め、手を頭の後ろに組んだまま、身体をシートに沈めて足を組んだ。
そして、喉を軽く唸らせたのち、少しの間をあけてから言葉を絞り出した。
「んー……父のことは恨んでいるけど、疎ましく思っていない。そして、アユミさんのことは恨んでいないけど、疎ましく思っている――正しく言い表せば、こんなところでしょうか」
その語りは、あくまで変わらず淡々としていた。
俺は玲さんが息をするたび、小さく上下するお腹の辺りの動きにぼんやりと視点を置きながら、思ったままを口にした。
「……複雑ですね」
「えぇ、人間ですから」
「もう少し詳しく教えてもらえますか。どうして、そんなことを……」
「どうして、と言われましてもねぇ」
「……お母さんのことと、何か関係あるんですか?」
俺が先日、レストランのおばちゃんから知り得た“お母さん”の存在に言及したとたん――
リクライニングシートにもたれる玲さんの眉間にくっと力が入った。
「父と母は……はじめから別居婚やったんです」
そして、彼女の眉間から皺がすっと消えたかと思えば、意を決したように間を置いてから過去を振り返りはじめた。
「父はこの町の自動車工場、母は京都の家業の小料理屋。出会ったときには、お互いすでに手放せへんもんがあった。せやけど……よう愛し合ってはった」
「なるほど……だから別居婚を」
「今となってはようある結婚の形やけど、昔はそうでもあらへんかったから……はじめはそらもう周囲から反対されてたみたいです。私は母とずっと京都に住んでましたが、母がよう料理人やった祖父から……そのことをガミガミ言われてはんのを、よう聞いてましたから」
玲さんは懐かしむようにして、穏やかな口調を崩さなかった。
そして、リクライニングシートを元の角度に起こし、視線をふたたびフロントガラスの向こう側に置いた。
「そんでも、母はずうっと待ってはった。父と約束を交わしたばっかりに」
「約束って?」
「父は言うてたんです……『俺の生まれ育ったこの町に、モータリゼーションの力でかつての活気を取り戻したる。それができたら、みんなで京都に住もうや』って」
「……まさか」
「えぇ。あれは、父がこの町での車いじりを止められずに燻っていた、8年前のことです」
玲さんは、自身の手のひらで眼前のダッシュボードを軽く叩き、この車全体に響かせるかのようにタンタンと音を発した。
「――約束が果たされるより先に、母はこの世を去りました。祖父ともども、営業中の店に衝突した、一台の暴走車によって」




