62.中央自動車工業株式会社 『高性能オイル添加剤 MT-10』
久方ぶりに嗅いだエンジンオイルと鉄の匂い。
そして、歩くたびに足音が反響する建屋の中は、換気が追い付いていないのか機械の排気熱が籠り始めていた。
日曜日にも関わらず、瀬貝自工の整備場に入っている車の数は、当日の作業予約がすんなりできる程度には少ない。
そして、ジャッキアップされた乗用車の周囲で稼働している作業員の数も、明らかに以前より減ってしまっている様子だった。
「――これですね、あの…メテ、メタルトリートメント用のオイル添加剤なんですけど。これ使うとエンジンのひょめ、表面に膜を張ってですね、その」
「はぁ……」
「お客さんの軽トラのエンジンじゅみゃ、寿命が延びますし、しかも前より静かに走れるようになります。今やったらつうぞ、通常¥6,300のところ――」
そして、俺はただタイヤ交換に来ただけなのに、ここでは比較的若手の作業員から整備場まで呼び出され、今まさにあれこれ営業を食らっている真っ最中だった。
オトン曰く『交換くらい自分でやれるようになれや』とのことだったが、これは単に節約のためだけでなく、こういった面倒を避ける意図があったのかもしれない。
しかし、今の俺にはどうしても“名目”が必要だったため、こうして瀬貝自工に依頼をする方が都合が良かった。
「うぅ~ん……あんまりいらないですかね……。これ親の車ですし、俺個人としてもあまり……」
以前、広島で佐藤パパに対するアユミのタイヤ営業を目撃した俺としては、このいつ用意されたのかも分からないようなロープレ文を、懸命に思い出しながら口を開く名も知らぬ作業員とどうしても比較をしてしまう。
社長代理の指示なのか、それともこの工場を生き残らせようと必死な“当事者意識”ゆえの行動なのだろうか。
俺の直感では、おそらく前者な気がする。
「そ、そうですよね……あ、でもですね、その……」
そんなことを考えながら、営業を断ることにほんの少し罪悪感を抱いていた最中、ここで俺はある妙案を思い付いた。
あまり褒められた手段ではないが……いや、今は四の五の言ってられない。
「――あっ、でも俺。作業員さんの営業聞いて、ちょっと気が変わった……かもしれません」
「えっ、ほ、本当ですかっ」
俺の白々しさに溢れた手のひら返しにも関わらず、さっきまでしどろもどろだった作業員の表情が、一気にパァッと明るくなった。
「でも、その前に。ちょっとお伺いしたいことがありまして……」
「は、はいっ。なんでしょう?」
「最近、あの厳つい社長さんの姿お見かけしませんね。ご病気やとは伺ってるんですが」
そんな彼の心境などお構いなしに、俺は心を鬼にして本題に入ることにした。
「あぁ~、実は社長はいま……隣町で入院してるんですよ」
「えぇっ!?」
咄嗟に飛び出した驚きの声が、思いのほか大きく工場内にゴンゴンと反響してしまった。
周囲にいた数名の作業員が俺の方に視線を向けた瞬間、俺は思わず口を塞いだ。
「あの、お客さんどうされました?」
「い、いえ……よくお世話になった人やったもんで、つい」
「あぁ、お客さんもお知り合いでしたか。あの人、あんなに顔もガタイも言動も怖い人やのに、慕ってる人めっちゃ多いんですよね」
「あぁ~、なんかよう分かります。久しぶりに挨拶しようと思ってたんでショックでした……ご病気が悪化しはったんですか? 入院先の病院は?」
「それが実は……オレたちもほとんど、その辺は何もあの社長代理から聞かされてへんくて……」
「え、そうなんですか」
玲さんと作業員の間でのコミュニケーション不全は、どうやら相変わらずのようだ。
やはり、決定的なことは本人に聞くほかないのか。
何か、とっかかりだけでも得られればいいのだが……。
一方、作業員は再びオイル添加剤の缶を手にして、言い出しにくそうに口を開いた。
「あの、それより……メタルトリートメントは……」
「……検討してるんですけど、できればもう少しお話を聞きたいなーって。特に社長代理のこと、みんなどう思ってはんのかなぁ~とか」
「いや、これ以上はちょっとプライベートなお話になっちゃうというか、その」
「……実は俺、ここで車検も検討してるんです。さ、作業員さんの営業聞いて……か、感動? したんで……」
「……」
作業員は缶を再びテーブルに置いて、何事もなかったかのように話し始めた。
「ここだけの話、あの娘さんのことも……よう分からんのです。なんか、現場には積極的に顔見せてお客さんと話そうとせぇへんし、ここを売りに出す計画も頑なに覆そうとせんのに」
俺は胸がギュウと痛くなった。
なぜなら検討も何も、オトンは車検をいつもここにお願いしているからだ。
「そのくせ俺らにコーヒーを振舞ったりとか、有給取れてるか心配してきはったり、そういうささやかな気遣いはするから……いまいち嫌うこともできなくて」
「な、なんかチグハグですね」
「でしょう? それが不気味というか、一本芯が通ってなくて不安というか……」
「……そうですか。でも、皆さんの仕事がなくなるのはやっぱり困りますよね?」
「はい……。あっでも、それも再就職先の斡旋とか仲介なんかもしてくれてはるみたいで……」
「へぇ……」
「まぁ、そうはいっても……俺も簡単には町を離れられんので、潰れるまでは頑張ってみようとは思いますけど」
話を聞く限り、玲さんにとって会社の人たちが憎いわけでは決してないようだ。
これだけなら、彼女がやろうとしていることは経営が傾き始めている会社を畳み、土地を早く売りに出して従業員の退職金に充てるという、極めて手堅い妥当な舵取りだ。
目的がはっきりしている分、生半可な提案では、用地売却を撤回してもらうことは難しいかもしれない。
――そして、問題はそれだけじゃない。
半年前に玲さんが吐き出した、社長とアユミに対する呪詛のような言葉。
あれは間違いなく本心から迸ったものだ。
リョーコさんの提案を呑んでもらうことも大事だが、それ以上にこのしがらみを明らかにし、誤解があるなら解く必要もある。
そうでないと、このままではアユミを一生、しがらみの中で苦しめることになるし、玲さんも心から提案に納得できないだろう。
あと少し、もう少し、情報が欲しい。
「あのー……それより、添加剤……」
「えっ、あぁ……その、実は俺、ここの中古車もちょっぴり気になって……」
「え、本当ですか!?」
なんだか自分で事を大きくしすぎているような気がして、妙に胃がキリキリしてきた。
まぁ中古車なんて、普通その場でポンと買うものではないし……。
「どんなお車をご希望ですか? セダン? SUV?」
「あ、いやぁ……まだ買うかどうかは、いったんどんな車があるか見てか――」
そのときだった。
「――あら、何かご入り用のお車でも見に来はったんですか?」
工場に聞き覚えのある女性の声が響き渡り、俺は思わず口をつぐんだ。
「あっ、社長代理……そうなんです。このお客さん、添加剤と車検と中古車を検討してはるみたいで……」
「へぇ……そうなんですかぁ」
先日の弱々しい雰囲気はなく、玲さんは貼り付けたような笑顔で作業員に返事を返した。
あれ、俺もしかして中古車買わないと帰れない?




