61.Canon 『EOS 7D & EF-S18-135mm F3.5-5.6 IS STM』
白んだガラス窓から春の日差しが差し込む、『ビューレストランそが』の店内。
テーブル席から周囲を見回すと、ガラスに手をついて「たかいたかい」と歓喜の声を上げながらピョコピョコ跳ねる子供と、それを見守るご家族。
コーンスタンドに刺さったソフトクリームを、嬉しそうにスマホで撮影するライダースーツを着たおじさん。
そしてお互いに何も話さず、しかし穏やかな雰囲気の中で静かにコーヒーをすする老夫婦の姿が目に入った。
彼らは観光客だろうか、それとも常連客なのだろうか。
たった数組ほどの違いではあるものの、お客さんの数は以前よりも増えているようだ。
しかし――その中に、玲さんの姿はなかった。
「はい、おまたせぇ。お姉ちゃんのオムライスねぇ」
今日は土曜日で瀬貝自工の休みではないのだから、それは当たり前のことだ。
それでも、昨夜の密会で俺たちに課せられた使命にいち早く着手するには、ここで彼女に自然と会えることが、最も好ましいと考えていた。
「……おおきに」
いや……やっぱり今は、彼女と会わなくてよかったのかもしれない。
おばちゃんの運んできた白いお皿に乗った、大きくて黄色いラグビーボール型のドームと、鮮やかなケチャップの黄金比が保たれたそれを前にして――
髪をまとめ、ラフでタイトなコーラルピンクのカットソーに身を包んだアユミが、いつものクールな表情の隅で口角が綻ぶ様子がたしかに見えたからだ。
「はい、こっちはお兄さんの月見うどんねぇ」
こんどは黒と緑の重くて大きな丼が俺の眼前にゴトリと置かれると、薄い色のだしに浸ったうどんの上でつやつやの卵黄がふるりと揺れて、湯気にさらされた透明な卵白には薄い膜がじんわりと張りかけていた。
それはうちの自販機から出てくるうどんとは違い、れっきとした食事としての一品だった。
「お兄ちゃん、今日はえらい大人しいランチやんかぁ」
「せやねん。昨日飲みすぎたせいかなぁ……俺の胃と肝臓が『今はこれにせぇ』て言うとんねん……」
「ふふ、なんやねんなそれ」
そういえば、前回の広島の帰りもそんな気分で“ざるそば”にしたな。
俺がぽやぽやとそんな過去の情景を思い描いていると、向かいのアユミがボソリと「……貧弱」とぼやいてきたので、俺も「メタル胃袋」と返してやった。
そんなやりとりの後、おばちゃんが不意に口を開いた。
「そうなんやぁ、それは困ったわぁ」
「ん……? どうしたん、おばちゃん?」
「……まぁ大丈夫でしょ。またあとでドリンク持ってくるわねぇ」
おばちゃんは何やら含みのある言葉を残して、他のテーブルの空いた皿を下げに向かっていった。
何やろうなと一瞬思いはしたが、取り立てて深刻そうな様子でもなかったので、気にせず手を合わせた。
「いただきまーす」
「……いただきます」
箸で卵黄を崩してから、麺をわかめと一緒にゆっくりと持ち上げる。
そしてフーフーと息を吹くまでもなく、冷たい卵液が絡んで温度の下がった橙色の麺をすすると、滋養に富んだ卵のコクとわかめの食感、コシのある麺とともに、優しい昆布ダシの風味が五臓六腑に染み渡った。
一方、ひとことも話すことなく、カチャカチャと音を立てながらオムライスをスプーンでかっこむ目の前のアユミを見て、俺は思った。
あそこに座ってる老夫婦にも、昔はこんなやりとりがあったのかなぁ、と。
◆
「ごちそーさんでした」
「ごちそうさま」
それからしばらくして、空になった丼とお皿の前で再び手を合わせると、ほどなくしておばちゃんが大きなトレーを手にやってきた。
「はいはい、食後のドリンクとぉ……あとこれはサービスねぇ」
おばちゃんの“サービス”という言葉とともに現れたのは、コーンスタンドで自立し、たっぷりのホイップクリームにチョコソースがけの半切りイチゴを乗せて、黄色い生地と紙で平たく巻かれたふたつのクレープだった。
その瞬間、ふだんは潤いに乏しいアユミの瞳に、明確な光が宿ったところを俺は目撃した。
「お、おばちゃん……これ、なんのサービスなん?」
「これねぇ、旦那の新作なんよぉ。お兄ちゃんが宣伝してくれてるおかげか、最近は若い人もぼちぼち来てくれてるし、久しぶりにこんなん出してみよかってねぇ」
「なるほど……」
そう零して、俺はバッグからズームレンズを取り付けた、黒くて重い一眼レフカメラを取り出した。
最新のミラーレス一眼ではない、最近になってレンズと一緒に安価で購入した中古の所謂“デジイチ”と呼ばれるものだ。
「撮って良い?」
「もちろんええよぉ」
これは常連のレトロ一眼おじさんに影響され、俺もインスタやブログに載せる写真のクオリティを上げるために使い始めたものだが、おかげで最近はこうした撮影がそのものを楽しく感じ始めていた。
焦点距離をやや広角に合わせ、薄暗い空間、かつクレープ一点を撮るので絞りを開放にして、背景の抜けの良い画角を選ぶ。
そして、遅いオートフォーカスとマニュアルフォーカスの微調整で『ビューレストランそが』と書かれたクレープの紙の印字にピントを合わせてから、俺はメカシャッターをカシャと切った。
「……おおきに、また宣伝さしてもらうな。写真はこれでええかおばちゃん?」
液晶パネルで写真を見てもらうと、おばちゃんは嬉しそうに首を縦に振った。
「よう撮れてるわ。お兄ちゃんも、これでいっちょ前のブロガーになったって感じするねぇ」
「あはは、普通に照れるなぁ」
「……シュン、食おうっ」
「……メタル胃袋」
待ちかねたアユミの呼びかけに応じ、俺たちはクレープを頂くことにした。
俺ははじめ食べ切れるか心配だったが、もし余ってもこの食いしん坊に任せられそうなので、よくよく考えたら無問題だ。
生地は想像していたしっとりしたものではなく、パリッとした食感の真新しいものだった。
このサクパリの食感と、期待を裏切らないクリームとチョコイチゴの甘酸っぱさがクセになりそうだ。
「おいひい。なんふぁ、都会っふぉい」
「それはよかったぁ。おとぉさん、美味しいいうてはるわぁ!」
おばちゃんが店の奥に向かって大きな声をかけると、厨房に居た渋い顔のご主人が暖簾の隙間から顔を出した。
「粉とバターの量変えてん、そんな難しあらへんわ」
そして、ご主人はうっすらとドヤ顔を浮かべながら、その一言だけを残して厨房へ引っ込んでいった。
以前に取材をした際に驚いたが、彼は大昔に梅田の一流ホテルで料理長を務めていたらしい。
店の外観にそぐわない料理のクオリティの高さも、これで納得がいった。
俺が良いなと思った店の宣伝をして、可能な限り人を呼びこむ。
人が来ることで、店のモチベーションが上がって、こうしたさらなる改良が生まれる。
リョーコさんが思い描く“当事者意識”は、こうして外からの働きかけによって生み出されることもある。
これまで地道に続けていた努力が肯定され、今もなお役立てていること。
そして、目の前にいるアユミが口もとにクリームをつけながら、巡り巡って生まれた新作のクレープをほおばっている事実に頬を緩め――俺は思わずカメラの設定はそのままに、そんなアユミの姿を無意識にファインダーに収めた。
「……んぐ……っ」
メカシャッターの音が響くと、彼女はようやく撮影されていることに気付いて、複雑そうに小さい唸り声を上げながら、口元をそっと紙ナプキンで拭った。
「……それにしてもご主人、ようこんな若者世代の流行りに目ぇつけはったな。いつもそんなにアンテナ張ってる人やったっけ?」
「ふふ、実はこのパリパリのクレープねぇ‥‥‥最近こんなん観光客に流行ってるんよっていうのを、京都帰りのお姉ちゃんが教えてくれてねぇ」
「え……」
不意に耳にしたその人物が、誰を差しているのかはすぐに分かった。
アユミも、それまでもぐもぐと動かしていた口を止め、少しのあいだ無表情のまま固まっていた。
「こないだ、お兄ちゃんが来てくれはった日にそこ座ってたあの子よぉ。昔は小っちゃい頃にようご両親と来てはったんやけど、それからずっと京都に住んでたみたいでねぇ。それでも最近また来てくれるようになって、嬉しかったわぁ……」
言葉の通り、嬉しそうに過去を話すおばちゃんを見上げながら、俺はこれまで言及のなかった玲さんの“両親”——
社長の“奥さん”の存在を、頭の中で反芻させていた。




