55.タテヤマアドバンス 『電飾スタンドサイン ADO-300』
二日間降り続いた雨が上がり、星空が顔を出し始めた金曜日の夜。
俺はアユミが運転するシビックの助手席に背筋を伸ばして座り、膝に置いた両手の指をあてもなくトントンと動かし続けながら、ヘッドライトが照らし出す数メートル先の限られた明るみに視線を置いていた。
「……な、なぁアユミ。無理して来ることなかったんやで」
「……無理してへん」
勇気を出して、チラリと隣を見やる。
アユミは下ろした髪を綺麗に梳いて、ピアスを目立たせないようにしている。
そして、服装の方もカチッとしたネイビーのテーラードジャケットに、オイスターホワイトの軽いワンピース、ベージュのパンプスを合わせ、木立アユミ史上かつてない程の綺麗目ファッションに身を包んでいた。
いわゆる女子アナファッションってやつで、いつもの俺ならもっとドギマギしていたはずの姿だ。
「……やっぱり、なんか怒ってる?」
「……怒ってへん」
しかし、実際に感じているのはドギマギではなく、キリキリの方だった。
アユミのなんとも言えない流し目を受けた俺は、あえなく視線を前方に戻した。
何を隠そう――隣から返って来る声が、ことごとく低くて短い。
いや、声が低いのは元々からそうなのだが、一昨日に家に帰って取材の結果を報告してから今に至るまで、彼女の声が普段よりもざっくり1オクターブほど低い。
「あっ、向こうシカさんいるわ。逃げや逃げや~轢かれるで~……なんつって、あはは……」
「……」
アユミが(おそらく)怒っている原因を、俺は何度も何度も考えた。
しかし、何をどう考えても……結局あれしか答えが思いつかなかった。
あれとはつまり、一昨日に玲さんとレストランでばったり会ったにも関わらず、予想以上に何かに追い詰められた様子にビビって何も聞き出せず、ただ同じ空間で飯を食っただけで終わった、あの一件だ。
アユミに話をするまでは、彼女なら『それでええ』と言ってくれる確信があった。
『……あっそ』
しかし、実際に返ってきた返事は、思いの外ぶっきらぼうなものだった。
もしかすると、俺の行動は自分で思っている以上に、アユミからすれば優柔不断で頼りのない選択に見えていたのかもしれない。
もちろん、まだそうと決まったわけではないけれど……もしそうだとしたら、完全に判断ミスだった。
「……あ、ボンネットになんかの幼虫乗ってる……」
「……」
しかしながら、怒っているという割には――鴻巣GMとの密会には、こうして慣れないおめかしをしてまで、ついて来てくれていることが不思議でならない。
今着ている服だって、本人は何も言わなかったものの、昨日の昼間に車がなかった時間から察するに、あのタイミングで慌てて買いに行っていたことが伺える。
この辺りに高齢者向け以外の服を売っている店やスーパーなんてないはずだから、相当遠くまで車を走らせたに違いない。
俺はここに来て、今まで全部分かった気でいたアユミの輪郭が――またしても不明瞭になってしまっていた。
◆
やってきたのは、元下蘇我小学校にほど近い、役場の支所などがある下蘇我学区の一応の中心地。
“蘇我銀座通り”と呼ばれる、銀座とは名ばかりの木造家屋と小さな商店が数件並ぶだけの、いわゆるシャッター街である。
その中でただひとつ、二階建ての古めかしい雑居ビルの軒先に、白いのっぺりとした光を煌々と放つ『スナック ユキちゃん』のスタンド看板が見えた。
「ほな、気いつけてなぁ。立派なチョウチョになりや~……」
終始ボンネットにしがみついていた緑色の幼虫を指ですくい上げ、駐車場の近くに生えていた背の高い雑草の葉にそっと置いた。
気まずさの極致のなか、彼(?)はずっと目線の置き場になってくれていたので、俺にしてみれば実質戦友である。
一方、アユミは運転席を降りて立ち上がると、自身の装いを無言で整えており、俺の博愛の心が伝わっている様子は一切なかった。
「……そしたら、入ろか」
声をかけると、アユミはつんとした態度を隠さず、明後日の方角に目を向けたまま無言で頷いた。
やはりショックなものはショックだが……まぁ、今はアユミのことばかり気にしてられる状況ではない。
なにしろ、これから会うのはあの腹の底が見えない鴻巣GMだ。
先ほど、俺宛にメールで『先に入っています』と連絡があった。
彼女はいったい、これから俺にどんな話を持ちかけようとしているのだろう。
今回は相手のペースに呑まれないよう、細心の注意を払わなければならない。
意を決した俺はドアノブを回し、板チョコレートのような設えのドアをそっと開いた。
ドアの向こうの薄暗い世界で、間接照明に照らされたカウンター席のスツールに、足を組んで座っていたのは――
「ファァァァーッ! んなもん糸引いとったら傷んどるに決まってるがな!」
長丈の迷彩スウェットパーカーに身を包み、カウンター越しのママとだべりながら手を叩いて大口を開け、超音波のような叫び笑いを上げる――
「いや、ちゃうねんちゃうねんリョーコちゃん! 先に実物見たんは旦那でな、『おがあざん、カニカマいどひいでる見で見で』とか言いよるから『んなもんどうせアンタのツバやろが、どついたろかァ!』……とか言うとったらホンマに糸引いとんねん」
「フゴッ……! いやオモロすぎるやろ自分ら。いちっミリの同情の余地もあらへんやん……有罪有罪、慰謝料一億え~ん! ユキちゃん、はよ旦那に謝っとき~ヴヒハハハハハッ!」
――ただの関西人のオバチャンだった。




