54.ダイハツ 『ムーヴキャンバス』
ホテルの自動ドアが、入った時よりも大きな摩擦音をギュルギュルと鳴らしながら開き、傘をポツポツと叩く雨はさっきより弱まっていた。
傘をすぼめて軽トラに乗り込んだ俺は、エンジンをかけずに、フロントガラスに模様を作った無数の雫を少しの間ボーっと眺めながら、さっき鴻巣GMから受けたお誘いのことを思い返した。
「スナックかぁ……」
あんな提案が飛んでくるということは、俺はあの人にとって――多少は本音を話してもいい人間だと認められたのかもしれない。
どうこねくり回して考えてもそうとしか思えず、俺は少しこそばくなるような嬉しさを覚えた。
しかし同時に、更なる謎も生まれた。
なぜ、GMは大事なことをホテルの中で話そうとしなかったのか。
そして何より、なぜアユミも一緒に呼ばれているのか。
俺としては、この誘いには是が非でも乗りたいが、アユミを誘っていくかどうかはまた別問題だ。
まだまだ俺には、あの人の腹の底がまったく見えていない。
「……お腹空いたなぁ」
一方、情けないことに俺の腹は底をついてしまっていた。
腕時計を見ると、時刻はもうお昼前だった。
いま帰ったところでアユミはまだ寝ているし、オカンにも取材の終わりが何時になるか分からなかったから、昼食はいらないと言ってある。
「……あの店、久しぶりに行ってみるか」
そう思い、手にした鍵を穴に差し込んで軽トラのエンジンをかけると、眼前のガラスに作られていた水玉の模様が、振動によっていくらかツツっと流れ落ちていった。
ここ最近は今回の件に限らず、いろんな問題が浮き彫りになってきた。
たまには一人でゆっくり飯でも食いながら、頭のなかをグルグルしているたくさんの情報を整理しよう。
図らずも、今回の取材は俺をそんな気にさせてくれた。
◆
ここに来たのは、ひと月ぶりぐらいだろうか。
崖上に立つ『ビューレストランそが』の駐車場は吹きさらしとなっていて、傘を差せば裏返ってしまいそうなほどの強い風が吹いていた。
そのため傘を差すことは諦め、薄く水の張ったアスファルトの上で飛沫を上げながら、車から入口までの短い距離を小走りで駆けた。
昼時にも関わらず、駐車場に停まっている他の車はどうやら一台だけのようだ。
薄いピンクのかわいらしい京都ナンバーの軽自動車で、ルームミラーに吊り下がったキティちゃんのマスコットキーホルダーが、一瞬ガラス越しに目に映った。
「もしかして観光客かな……珍し」
入口前にたどり着いた俺はボソリとぼやきながら、重いガラスドアの押し板に手を重ねた。
ガラガラの店内に大きなベルの音が響くと、いつものようにおばちゃんが「はいはい」と言いながら店の奥からやって来た。
「いらっしゃいませぇ。あらー珍し、今日はおひとりなんやねぇ」
「あはは、そうなんすよ~。おばちゃん、今日は席空いてます? ……なんつって」
「ふふ、あいにくガラガラに見えるくらい満席やわぁ。お引き取りくださいましぃ」
「あいよー……ってなんでやねんっ」
他愛もないやりとりを程々にして、俺は勝手に“定位置”と呼んでいる他よりやや景色の良い、奥側の窓際席に向かって進んでいく。
ところが、あいにく例の定位置には先客がいるらしい。
黒い長髪をしんなりと落ち着かせ、テーブルの上に置かれたメロンソーダフロートのグラスを、長いスプーンでキンキン、カラカラとかき回している女性の後ろ姿が目に入った。
俺は少し落胆しながら、さらに奥側を目指すことにした。
――すると横を通り抜ける直前、女性の大きなため息が耳に入った。
「はぁ……っ」
さらに彼女は、スプーンを持つ手と反対の腕をテーブル上に這わせ、やがてそこに崩れ落ちるように顔を突っ伏しはじめた。
いったい何があったんだろうか、それとも日ごろのフラストレーションの積み重ねなのだろうか。
いずれにしてもこの人は、なんだか相当にお疲れな様子だった。
それが分かった瞬間、『なんでこんなに広い店で、わざわざそこに座るんだよ~』などと囁いていた俺の中の悪魔が、今では『まぁそういう日もあるわな』なんて天使の発言にすげ替わっていた。
なんともいい加減な天使と悪魔である。
「――えっ」
定位置の横を通り過ぎた刹那、背後からなんとも間の抜けた女性の声が聞こえた。
振り返ると、そこには顔を上げ――手で口を押えて固まる、玲さんの姿があった。
「あっ……」
「……こ……」
なんとも、思いがけない出会いだった。
アユミが瀬貝自工を退職して以降、一切会ってくれなかった人が。
俺が一番話をしたい、ひとこと何か言ってやりたいと思っていた人物が――今、こうして目の前にいる。
「……こんにちは……」
しかし、そんな俺の昂ぶる気持ちとは裏腹に、玲さんの表情からは以前会ったときとは、雰囲気がまるで違っていた。
隈を作った目はあちこちに泳いで、荒れた頬の肌を指でポリポリと掻く様子が、嫌でも目に入ってしまう。
「……こんにちは……今日はお休み、ですか?」
「……はい、まぁ……水曜日なので」
「ここ、う……美味いっすよね」
「え……えぇ……そうです、ね……」
いや、俺はいったい何を言っているんだ。
もっと他に、アユミのために言いたいこと、聞きたいことはあるだろう。
「よく……来られるんですか?」
「……いえ、最近は全然……遠い昔に来たことがあるだけ……」
しかし、こんな千載一遇のチャンスにも関わらず――俺の中にあるつっかえが、何故か喉まで出かかった言葉を、すべて『やめろ』と言いながら押し戻してしまった。
「そ、そうでしたか」
「……このレストラン、今でも残ってたんだって。ついなんだか懐かしくなってしまって……」
「あぁ……なんか分かりますそれ。俺も久しぶりに帰ってきたとき、なんやここ潰れてるやんって店ばっかりで。こういう風に残っている店を見ると、なんか無性に嬉しくなりましたよ」
「……そうなんです。私、とにかくゆっくりできる喫茶店とかレストランが好きで……ここが残ってたのは、やっぱり嬉しかったです」
「へぇ~、喫茶店が好きなんですか」
「えぇ……実は京都って、喫茶店がすごく多いんですよ。もしあっち行かはることがあれば……いいお店も多いので、ぜひ巡ってみてください」
玲さんの口から紡がれる言葉と声はどれも穏やかで、とても半年前にアユミに対して毒を吐きまくっていた彼女と同一人物だとは到底思えない。
「そうですね……ありがとうございます」
「……」
会話が途切れるとともに、玲さんの視線がテーブルの上にスンと落ち、閉じた口の口角がやや強ばったように見えた。
この瞬間、俺はようやく――いまするべきことを理解した。
「……それでは、また」
彼女に一言だけそう伝えると、振り返りざまに「えっ」と漏れる声が聞こえた。
この半年間、玲さんにいったい何があったのかは、皆目見当もついていない。
でも、ひとつだけ言えることがある。
それは、人の弱みにつけ込んで無理やり引き出した情報なんかが――アユミのためになるはずなんてない、ということだ。
俺は玲さんに背を向けるように奥側のテーブル席に着き、メニューにさっと目を通したあと、無意識にボタンを押した。
今回はちゃんと『ピンポーン』と響いたので、驚いた。
「はいはぁい」
「あ、すみません……今日は俺も、お子さまランチ食べてみたいです」
「かまへんよ。今日は彼女さんおらんから、カッコつけへんでもええしね」
「よ、余計なこと言わんとってくださいよ……」
「ふふ、はいはい」
注文を受けたおばちゃんがそそくさと厨房に戻っていく。
背後からはストローで飲み物を吸う音だけが、ただズズっと響いた。




