52.旭彫刻所 『アクリルホテルキー』
春雨がさんさんと降りしきる、水曜日の朝。
夜勤を終え、今から眠りにつこうとしていたアユミと厨房で出会った俺は、彼女に労いの言葉をかけた。
「お疲れさん、アユミ。俺いってくるわ」
すると、彼女は眠たげに目をこすりながら近づいてきて、無言のまま俺の首元に手を伸ばし、ネクタイをキュッと締め直してくれた。
あり余る腕力のおかげで少し喉が閉まって苦しいが、俺は平静を装って「ありがどう」と伝えると、アユミは目をポヤポヤと閉じかけながら満足げに「ん……」と零し、部屋へと消えていった。
スイングドアを抜け、ネクタイをちょっとだけ緩めると、俺の頬も一緒に緩んだ。
最近、アユミがよく眠れるようになってきたこと。
そして、今回のようなお見送りの仕方に、ちょっとしたバリエーションが生まれてきていることに気が付いたからだ。
外に出ると、雨で白みがかったボロボロの国道が、先日組みあがった足場の向こうに広がっている。
単管を伝って、雨雫がとめどなく滴るなか、ツバメは今日も餌探しのためにせわしなく外を飛び回っていた。
「雨やし休み……とはならんわな」
そう一人ごちてから傘を差し、俺は軽トラがある駐車場へと歩みを進めた。
◆
眼前にそびえる『やまぶき』の全容を見上げると、自然と息が漏れた。
「……でっか……」
俺が生まれるよりも遥か昔から営業しているホテルなので、当然建物を見るのは初めてではない。
しかし、今までは車で前を通りがかるときにせいぜい遠目に眺めるくらいで、泊まったこともなければ、こうして傍からまじまじと見上げたこともなかった。
大型バス専用スペースに大きく割かれた広大な駐車場を見回すと、外周フェンス付近の小型車専用スペースは雑草によって覆われ、外一列分はほとんど停められない状態となっていた。
そして、鉄筋コンクリート造の黒ずんだ10階建ての巨大な箱も、ところどころツタが張ったままになっていたり、客室ベランダに置かれたいくつかの室外機にテープがバッテンの字で貼りつけられていたりと、管理が行き届いているようには到底見えなかった。
玄関先で傘を閉じ、大きな庇の下で軽く水気を振り落とすと、大理石調の床材がいくつかの雫を弾いた。
装飾付きのアルミ製傘立てに傘を差し込んだ後、キュルキュルと音を立てて開いた自動ドアを越えて中に入ると――革靴に覆われた足が、吹き抜けのロビーにぶら下がる暖色のシャンデリアに照らされた、ふかふかで絢爛な緋色のカーペットに包まれた。
ちょうどチェックアウトの時間帯も終わりを迎えた頃なのだろうか、すでにお客さんの姿は見当たらず、ロビー奥のエレベーター前には、客室から運び出されたであろうリネン類を乗せたメッキ塗装の台車がいくつも置かれている。
俺はひとまず、ロビーのフロントにいる中年男性に声をかけることにした。
「あの……すみません。本日、鴻巣GMとお約束しております、日巡と申しますが……」
「……あ、日巡様……ですね、少々お待ちください」
そう言って内線電話の受話器を上げ始めた男性の名札を見ると、役職にNMと書かれていた。
ナイトマネージャーの略だろうか、だとすればアユミと同じだ。
夜勤明けだし……眠そうなのも、スーツの肩にフケがめちゃくちゃ目立つのも、まぁ仕方がないのかもしれない。
「お待たせいたしました……ご案内します」
フロントからもう一人、上品な薄紫のワンピース制服に身を包んだ中年女性が、立体長方形の青くて大きなアクリルキーホルダーが付いた鍵を手にして現れた。
あれ、そこのロビーラウンジ席なんかで話をするんじゃないのか?
俺はそう思いながらも、とりあえず彼女のあとについて、そのままよく揺れるエレベーターに乗り込んだ。
そして、案内されたのは――これまた絢爛なレンガ色のカーペットが敷かれ、革製のソファと重厚な木のローテーブルの周囲に、いくつもの花を生けた大きな花瓶や調度品が並べられた、いわゆるクラブラウンジと呼ばれる特別室だった。
……えっ、なにこれ。
俺、もしかしてスイートに泊まるお客さんか何かだと思われてる?
「間もなくGMが伺いますので……いましばらくお待ちください……」
「え、いやちょっ」
咄嗟に呼び止めようとしたのも虚しく、中年女性は頭をすっと下げた後、そそくさと部屋を出ていった。
「……こんな壺、なんぼするねん……」
俺みたいな庶民中の庶民が、こんな空間で落ち着けるはずがない。
ソファに腰掛ける気分にもなれず、ひたすら周囲に点在するアイテムに、視線の置き所を無理やり作った。
「……でっかい木彫りの熊やなぁ」
やがて、目についたサケを咥える熊の大きな像を前にしたとき。
一周回って、関西人の血が騒ぎつつあった俺は、両手を上げて「ガオー」とひとりで零した。
「――すみません、お待たせしました」
刹那、背後から女性の声がした。
俺は、止まりかけた心臓を皮膚の上から素早く一度だけ叩いて、何事もなかったかのように振り返る。
なんかこのパターン、前にもどっかでみたぞ……。
「い、いへっ、まってますん!」
案の定と言うべきか、入口付近に立っていたのは、これまた派手に真っ赤なワンピースに身を包んだ、茶髪ロングヘアーの壮年の女性だった。
皺を作りながらも、昔はモテていただろうなと自然に思える整った容姿に、その髪型と色も相まって、この人がサキさんの母親であることはすぐに分かった。
「……は、はじめまして、当館総支配人の鴻巣と申します」
「こ、こちらこそ、初めまして……日巡と申します……」
鴻巣GMはさっきの奇行をバッチリ見ていらしたようで、手を口に添えて少し吹き出しそうになりながら、俺にソファに座るよう促してきた。
第一印象で下手打ったことを焦りつつ、黒いソファに腰を落とすと想像以上に沈み込んだため、転ぶように足が前に滑り出してしまい、それを目にしたGMはまたしても口に手を添えた。
「ふふ、本当に楽になさってくださいね」
「……面目ないです」
意外なことに、こうして俺のようなペーペーに対しても穏やかに語り掛けてくるGMの雰囲気には、妙な親しみやすさを感じた。
なんとか落ち着きを取り戻した俺は、ソファの上で体勢を整え、改めて話を切り出した。
「……今日はご多忙の中、わざわざお時間を作ってくださり、本当にありがとうございます」
「いえいえ。私もこう見えて、以前は他所の観光協会に勤めておりましたので……発信の大切さは身に染みて実感しておりますの。こうして地元振興に熱心なお若い方の取材とあれば、応じないわけにはいきませんね」
しかし、その親しみやすさにはどこか、違和感を感じざるを得なかった。
それは、さっきの鴻巣GMとの出会い方がきっと――瀬貝自工で玲さんに出会ったときと、よく似ていたからだ。




