45.Abyss 『Square リーダー』
「……その。いま、俺が持ってる30万……これを頭金にして、分割でなんとか行けませんかっ」
いくら頭を捻ろうが、どのみち俺に“すぐ”無い袖を振ることはできなかった。
情けない話だが、俺はほんの少し前まで物価の高い東京で苦学生をしていた身。
貯金なんて……いつかパソコンを購入しようと、誰とも遊ばずに、コツコツ貯めていたバイト代の積み立てがせいぜいであった。
「……」
しかし、会田さんは首を縦には振らない。
無理もない、頭金の30万なんて提示されている金額の半分にも満たないのだから。
そうして、俺がそれ以上なにも言葉をひねり出すことができず、ただ手を強く握りしめていた――そのときだ。
「ウチ、残り出します」
口を開いたのは、アユミだった。
「えっ……」
「元々、言い出しっぺはウチや。広島から持って帰る言うた時点で、腹はもうとうに括っとる」
アユミの声色は力強く、切羽詰まったような様子は微塵も見受けられない。
「それにや、シュン。付帯費抜きとはいえ……この内容で80万は、むしろ良心的な金額を言うてくれてはるわ。これで直るんやったら、お願いせえへん手はあらへん」
「でも……アユミ、そのお金って……」
そうだ。
アユミが瀬貝自工で貯めたお金は、たしか彼女が――自工がなくなってしまったとき、引っ越しに充てるお金だったはずだ。
「や、やめとけって。そんなことして万が一があったら……」
「ウチ、その万が一が嫌なんや。ウチは……やっぱりシュンやみんなと一緒に、ここを絶対残したなったんや」
「……アユミ」
「その確率が少しでも上がるんやったら、こんな金ウチにはいらへん。それに、ウチにはこの婆ちゃんのベンダーは、どうしても見捨てられへん」
あぁ、ヤバイな。
この目は、テコでも考えをねじ曲げないときのやつだ。
絶対に止めないといけないのに、なんだろうこの感覚は。
視界がちょっと霞んで……。
「――アカン」
しかし、そこに待ったをかけたのは……オトンだった。
「……なんですか、お父さん」
アユミはオトンに対して、低く、かつ凄みの効いた声を発した。
彼女がオトンにこんな態度を取ったのは、《《10年ぶり》》かもしれない。
一方、オトンの方は俺たち二人を汗をかいたまま静かに一瞥し、それから一度だけ大きく息を吸った。
「……会田さん。カード、いけますか」
その瞬間、それまで険しい表情でオトンを睨み付けていたアユミは、急にキョトンとした顔に緩んだ。
きっと、今の俺も同じ顔をしているはずだ。
オトンの質問に対し、会田さんは首を縦に振った。
「面倒くそうても決済端末導入しといてよかったわ。こないなオモロイもん、直せへんかったらどこにも骨埋めれんとこやったがな」
会田さんは続けて、それまで静かに動向を見守っていた熊さんに向けて、口を開いた。
「おいクマ、トラック出せや。うちの工場までコレ運べ」
「んぐ……今からっすか」
「タイヤの運搬とコイツの持ち帰りのために広島まで行って一日潰した言うたら、お前んとこの怖い社長か娘に採算取れんてドヤされるやろ。運搬費だけは儂が出したる」
「……分かりました。早速積み込みましょか」
熊さんはやれやれと頭を振りながら、腰ポケットに入れていたゴム軍手を再び手に装着しはじめる。
そんな彼に、アユミがボソリと声をかけた。
「……かんにんな熊さん、帰る時間遅してもうて」
「まぁええんちゃう。俺もちょっと、これ動いてるところ見たいしな」
熊さんは口角を上げながらその一言だけを零して、さっそく搬出作業に移り始めた。
◆
川鉄製うどん自販機を積み込んだトラックが音を立ててドライブインを発ち、ほどなくして会田さんの跨る原付が何度かアクセルを回してから、ヨロヨロと出発した。
風ではためくピンクの半袖Tシャツを着た人影が、暗闇に消えていく様子を見送った後、オトンが深くため息をつきながらドライブインの中へと入っていった。
俺たちもそれを追いかけて中に入り、おおよそ久方ぶりにも思えるスナックコーナーの白いテーブルに肘をつきはじめたオトンに、恐る恐る話しかける。
「……オトン、大丈夫なんか。そこまで余裕ないんやろ」
「余裕なんかあるかい。息子と連れがアホな金の使い方しようとしとったから、思わず口挟んでもうたんや」
俺に続いて、アユミも口を一瞬開こうとしたが、オトンのさらに絞り出すような声を耳にして、そっと口を閉じた。
「シュン、お前はまた物書きの仕事やるんやろが。そのたびにスマホのちっこい画面をしかめっ面で睨んで、また頭痛なるんかいな。そんなパフォーマンス悪いことするんやったら、ちゃんとしたパソコン買わんかい」
「……オトン」
「――そんで、このドライブインがまだ生き残れるよう気張ってくれ。ジャーナリストとやらの力で、どんな形でもええさかい……このうどん何千杯分の出資、回収できるように」
オトンが発した業務命令は――我が子に対する、人生で初めての切実な頼みなのだと理解した。
俺が首を何度か縦に振ると、オトンは今度はアユミの方を向いた。
「アユミちゃんよ……この際やから、ちと厳しいこと言わせてもらうわ。行政や自治体は、身分のはっきりせん人間にまで、手を差し伸べられるほど温かくはあらへん」
「……」
「それに当面は、アユミちゃんが貯金を十分にできるような給料やれる保証もあらへんし、瀬貝のオヤジが稼がしたその金がなくなって、万が一ウチまで潰れたら……自分、冗談抜きでホームレスやぞ。縁切った親のとこ帰るんと違ごたらな」
アユミは口をぐっと閉じて、俯きながら静かに耳を傾けている。
オトンは彼女の様子に注視しながらも、話を続ける。
「せやから、せいぜいシュンを手伝ったってくれ。いちバイトなんやから、そないな責任持つな」
「……お父さん、それでもウチは言い出しっぺや。それでは、納得でき――」
「――どうしても言うんやったら、月々の《《家賃》》払ってくれ。それでかまへんわ」
その瞬間、眉間に皺を寄せ始めていたアユミの表情が、再びポカンとしたものとなり、それからしばらくは、ゲームコーナーの筐体が発する電子音が場を包んだ。




