39.日野自動車 『デュトロ パワーゲート車』
ここは、本当に特異な場所だ。
眠りにつく前も、こうして目を覚ましたあとも――窓が開かないというだけで、青い間接照明と薄暗い埋め込み照明が浮かび上がらせるこの空間の見た目が、一切変化することはなかった。
「あー……めっちゃ風呂ええやん……あのスペースだけ持ち帰りたいわぁ」
「やかましいな……何回言うねん、それ」
二回目の風呂を終え、ベッドに腰掛けながらツナギに足を通していた俺は、アユミの呆れた声を聞いて、無意識に視線を彼女の方へと向けた。
アユミはキャビネットの上に置かれた小さな丸 鏡を見ながら、下ろしていた髪をまとめている。
視線を落とすと、やがて白い肌のうっすら背骨の形が浮いた背中に、黒いレース付き下着のホックが見え、さらに腰から下の布地が視界に入りそうになったところで、咄嗟に視線から外した。
「……悪かったな、ペッタンのくせに尻デカで」
「いや……ご褒美でした……」
チラ見していたことがバレていたらしい。
顔をアチアチにさせながらそう答えると、アユミは複雑な声色で「……ようわからん」とぼやいた。
俺は視線をベッドの縁に落としたまま、誤魔化すように言葉を続ける。
「……ひ、ひとつ聞きたいんやけど。このベッドって、なんで丸いん?」
「……いや知らんて。ウチもこんなとこ初めてやのに」
「まぁ、そやんな。俺ははじめ、てっきりこれ回るんかなぁ、とか思っててん」
「くっ……ききっ……ま、回るわけないやろ。なんのためにこんなもん回すねん……くくっ」
アユミの笑いを含んだ声を、なんだか久しぶりに聞いたような気がする。
「でも、なんかスイッチあるし……」
「いやそれ、照明かなんかやろ。おもろいやん自分……寝言は寝て言いや」
「あはは……それもそうやなぁ。回す意味ないもんなぁ」
「ほんまにそうやで……ベッドを回して何が楽しいねんて」
夜を越えても、こうして以前と変わらずに、しょうもないことで笑い合えていることが――俺は何より嬉しかった。
やがて俺たちは出口の精算機で会計を済ませ、意外な安さに驚きながら階段を下りて行った。
さっきまで俺たちがいた部屋は二階部分にあったようで、一階は車一台が入るガレージとなっており、シャッターの閉まった薄暗い空間には見慣れたシビックが待ちわびたように置かれていた。
「なるほど、こうやって外から車が見られへんようにしてあったんやな」
「ん……シビックは盗難に遭いやすいから、助かったわ」
「……そういえばアユミ、いつもドライブインでは外にシビック置いとるけど、あれは大丈夫なんか?」
「あぁ、あの町でこの車に手を出す奴はおらんわ。なんでかって……」
「いや、聞くんは遠慮しとくわ……」
俺がそう答えながらシャッター横の△スイッチを押すと、シャッターはカシャンカシャンと音を立てながら自動で上がり始めた。
薄暗かった空間には下から徐々に光が差し始め、遅れて柔らかく冷たい空気が入り込んでくる。
シャッターが目線の高さを越えると、眼前のアスファルトの割れ目で何かをつついていた、ぷくぷく丸い数羽のスズメが俺に気付いた様子で、『チュン』と鳴きながら一斉に向こう側へと飛んでいった。
そして、ピンク一色のレンガの塀に覆われた敷地の一部が視界に入ると、ここにきてようやく外に出てきたという実感が湧いてきた。
「んーよしよし。今日は約束の時間にもバッチリ間に合うなぁ、ちょうどいい時間や」
「……瀬貝自工は、15分前現着が当たり前。遅すぎず早すぎず、お客さんの信用第一や」
昨日、一緒に爆睡しとったくせによう言うわ。
なんてことを考えていると、アユミが運転席に乗り込んだ様子を目にして、俺も慌てて助手席に滑り込んだ。
やがて、シビックのエンジンが弾けるような始動音を上げ、景気のいい振動とともにゆっくりと前進を始める。
「そしたら……今日もがんばろな、アユミ」
「ん……まかしとき」
決意を新たにした俺たちは――ホテルのゲートの下、いよいよ目の前の国道に出ようとしていた。
「右は大丈夫、あとはあの左のトラックが行ったら出れるわ」
「……あっ」
突如、アユミが間の抜けた声を上げた。
俺は特に気にすることなく、国道の平トラックが通過する様子を眺めていると――
「あっ……」
俺も同じ声が出た。
そして、トラックの運転席にいた、ポカンと口を開けた見覚えのある大きなオジサンと完全に目が合った後、4つのタイヤを積んだ荷台の『工自貝瀬』という文字が視界に入った。
俺もアユミも、通りすぎていくトラックを眺めながら、しばらく沈黙していた。
◆
俺たちを乗せたシビックは、何故か国道から逸れて寄り道をしたりした後、オートパーラーサトウの前に到着した。
当然、例の4トントラックは先に横付けされていた。
「結局5分前になってしもた……15分前現着なん違うかったっけ」
「……ウチ、瀬貝自工は謹慎中やし……」
そんな答えの分かりきった問答を交わしながら車を下りると、オートパーラーサトウの前では、ママさんを除いた佐藤家の面々と、瀬貝自工の熊さんがすでに集合していた。
「古いタイヤ、よかったらウチで処分しますけど、どうしはります?」
「ほいじゃあ、お願いしてもよろしいですかね。何から何まで助かりますわ……」
熊さんは、先に佐藤パパとタイヤの引き渡しについて話をしているらしい。
そして、自販機コーナー前の段差に腰かけていたミカさんが、俺たちの姿に気がつくなり元気よく駆け寄ってきた。
「あー、おはよーございます! お兄さん、昨日の夜は大丈夫じゃったですか!?」
「お、おはようございます……あはは、ご覧の通りピンピンしてますわ。昨日、俺そんなにヤバいことなってたんですか?」
「うん! なんか『俺は西の目黒蓮や!』とか、『全国優勝や!』とか言いながら、こけては立ち、こけては立ちを繰り返しとったんですよ!」
ミカさんはアゴを突き出して俺の声真似をしながら、ケタケタ笑っていじってくる。
もともと引いていた血の気が空っ欠になる中、横からアユミの「ふっ」と小さく息を吹く音が聞こえた。
やめーや、俺はそんなアゴしてへん。
それからミカさんは、今度はアユミに対しても声をかけ始めた。
「アユミちゃんも、あの後どっか泊まれたん? 泊まるとこ探すの、ぶち大変じゃったじゃろ」
「……平気や。5キロくらい走ったらそれとなく……」
「えっ、ほんま? おかしいなぁ、一番近いビジネスホテルでも、20キロ走らんとなかったはずなんじゃけど……」
「……」
アユミはアゴに力を込めながら、頑張って無表情を保とうとしている。
おい、嘘ヘタかよ!
そうこうしていると、パパさんとの話を終えた熊さんがのしのしと近付いてきて、俺たちを見るなり目をあちこちに泳がせながら口を開いた。
「お、おはようさん。二人とも……ひ、久しぶりに顔合わせたなぁ。昨日は市街に泊まったんか? ……ぁ、あぁ、今日はええ天気やなぁ」
うわ、めっちゃ気遣われてる。
アユミもアゴに力を入れたまま真っ赤になって固まってるし、サヱさんは押し車に腰かけて、無言のまま俺たちを見回しているし。
なんかもうやだぁ……。
かくして、地獄の空気を引きずったまま、タイヤの搬入と自販機の搬出作業が始まった。
幸いタイヤの履き替え作業は、車載のジャッキとレンチを使ってパパさん自身の手で行われることとなったので、俺たちは納品のタイヤを下ろした後、搬出作業の方に集中することができた。
「トラックのケツ、バックして段差に付けるし後ろよう見とってな、アユミ」
「ん……」
熊さんがトラックの運転席に乗り込むと、さっきまで固まっていたアユミはいったいどこへやら。
顔つきはすっと変わり、手慣れた様子で『オーライ』の合図を送りはじめる。
無事にトラックが停まると、ほどなくして降りてきた熊さんのリモコンを操作によって、荷台後ろの蓋が開き、油圧でゆっくりと段差の高さまで下り始めた。
件の川鉄製自販機を実際に目にした熊さんは、懐かしむような口調でこう言った。
「すごいな、こんなんまだよう残ってたな……」
「熊さん、よう知ってるんか」
「いや、相当昔に舞鶴まで走りに行った時しか見たことあらへんわ」
ほどなくして、ハンドリフトに乗せられた自販機は俺と彼の手で慎重にトラックまで運ばれ、パワーゲートの蓋によって持ち上げられた後、無事に荷台へと到達した。
熊さんが自販機を荷台の最奥にロープで固定する最中、まだタイヤ履き替えの終わっていなかったパパさんの手伝いを二人で行い、最終的に作業が完了したのはほぼ同時のことだった。
残すは、これを無事に持ち帰るのみだ。
「……そしたら、俺たちはそろそろ行きます。この二日間、本当にお世話になりました!」
俺がそう言って深く頭を下げると、ミカさんが声をかけてくれた。
「いえ、こちらこそ……お婆ちゃんの気持ちに応えてくださって、ほんまにありがとうございました! また、年が明けたらみんなで遊びに行きますけぇね!」
「はい。こいつが直っても直らなくても、ぜひ無理のないようお越しください……」
「あはは、やっぱ西の目黒蓮は固ぁいねぇ」
俺がまたしてもミカさんにいじられた後。
今度はサヱさんが、アユミにとある一枚のメモを渡そうとしていた。
「……サトウのうどんは、いりこだしじゃけぇ。関西のほうじゃあ……あんまり食べんじゃろうけど……」
「ん……分かった。ウチにできるか、自信はあらへんけど……」
「……気ぃつけて帰るんよ」
「……婆さんも、長生きしいや」
アユミは言葉を言いきった後も、メモを握る手の添え方をしきりに変えて、サヱさんに視線を送り続けている。
サヱさんは一度だけ大きく頷いて、ゆっくりと手押し車を降りた。
――そして、前からそっとアユミの背中に両腕を回すと、アユミもサヱさんの背中に手を回し、互いに静かに抱き合った。




