37.WELLLAND 『スタンダードバスシリーズCepre』
「……風呂めっちゃいいやん」
アユミの言った通りだ。
今まさに身を沈めている真っ白なバスタブは、素材こそプラスチック製だが妙に安っぽさがなく、大人一人がしっかり足を伸ばせる程度には広い。
しかも、背中から腰に掛けての曲線が無駄に人間工学的で……つまるところめっちゃフィットする。
バスタブを覆う大理石調のエプロンに肘を置くと、寝室では得難かったラグジュアリー感が、なぜかここだけは肌と視覚を通してありありと伝わった。
「これ、一人で使ってええんか……?」
そう独りごちながら手にした小袋を破り、薬液をバスタブの湯に落とす。
そして、思いっきり手で湯をかき混ぜると、瞬く間にもこもことオシャンティーな白い泡が立ちはじめた。
「……お、おほほっ」
極めつけは、タイル壁に付いたこのスイッチ。
俺は故障中と書かれていないことを確認し、それを指で押し込む。
すると、バスタブに付いたジャグジーが起動し、バスタブの底から力強い気泡の奔流が発生した。
疲労に包まれた全身が心地よく揉まれ、その勢いでせっかく作った白い泡の塊が、奔流によって無常に洗い場の排水溝へ吸い込まれていく様を、俺は愉悦の眼差しで見つめていた。
「風呂めっちゃいいやん!」
◆
顔中に広がっていくこの熱の正体は、さっきの風呂によるものか、それとも――
脱衣場の大きな三面鏡と、使い終えたドライヤーや化粧水たち。
そして、ぽかぽかバスタイムから一転して急激に迫りくる現実を前に、冷静になった俺は化粧台に両手をつき、深く深く呼吸を整えていた。
彼女の真意の見えなさと、不安と裏返しになった期待。
俺はうまくできるのか?
いや、そもそも彼女に本当にそんな気がなかったらどうする?
俺がどんな思考を巡らせても、答えにたどり着けるはずはなかった。
となれば、俺にできることはただひとつ――彼女ともう一度顔をつき合わせ、真意を確かめることだけだ。
バスローブ姿となった俺はついに意を決し、寝室へとつながるドアノブに手をかける。
「――お待たせ。アユミの言う通りや、お風呂ほんまによかっ……」
……今日は本当に、驚かされてばかりだ。
壁際の青い間接照明にうっすらと照らされて、ベッドの縁に腰掛けているアユミの姿を目にして、俺は――
「……ん、おかえり」
――ドライブインにやって来て間もない頃の彼女の姿を、鮮明に思い浮かべた。
なぜなら、その髪がさっきまでの金髪ではなく、なんと真っ黒な長髪に変わってしまっていたからだ。
「……アユミ?」
「……ブッ」
状況が飲み込めず、俺が素っ頓狂な声で問いかけると、アユミは思わず吹き出した。
「シュン……これ、ウィッグや」
彼女は口角を上げながら、片手で黒髪ウィッグのサイドを持ち上げ、下に隠れた金髪をチラ見せしてきた。
そして、もう片方の手でベッドをぽんぽんと叩き、隣に座るよう自然に促した。
「な、なんや……びっくりしたぁ」
「かんにん。なんか、こういうの……無料でレンタルできるんやって書いてあって」
「なるほど、レンタルか……っていや、それにしたかて心臓に悪いわっ。だって……」
「……せやな。シュンにとっても、こっちやった頃の方が長いんやもんな」
俺が縁に腰を掛けたタイミングで、アユミは持ち上げていたウィッグのサイドからふわりと手を離し、やがて元の黒髪姿に戻った。
彼女の言う通り、俺にとってアユミは――未だに黒髪長髪だったころのイメージが強い。
少なくとも、俺が東京に行く直前まではそうだったから。
「……そや、なんかヘンな気分や。なぁそのウィッグ、そろそろ……」
「――なぁ。そろそろ、ええやろシュン」
突如、それまでのカラッとした様子が一転して、アユミは俺の顔をぐいっと覗きこみながら、ハッキリと聞こえる声量で言葉を発した。
彼女の勢いと眼差しに圧されるようにして、俺の上半身が自然と仰け反る。
「な……なにがや」
「なんで、東京行こうと思ったんや」
彼女のあまりに突然な問いかけに、俺は固まってしまった。
今思えば、それは本当に大したきっかけじゃなかった。
決して、隠さないといけない後ろめたいことがあるわけじゃない。
それなのに、俺は咄嗟に答えられなかった。
「ウチ、それがずっと気になっとった。シュンが昔から『俺ジャーナリストなるねん』て耳にタコができるくらい言うとったのは覚えてる。それでも、ウチにろくに相談もせんと、いきなりあの町を出ていったのは……いったい、なんやったんやって」
「……それは」
「……あの町が、嫌いになったんか。それとも、ウチ……」
――でも、だめだ。
アユミの声が、震え始めている。
その姿でそれをされて、もうこれ以上……黙っているわけにはいかない。
「……ちゃう。何も誰も、嫌いになったんとちゃう。せやけど……」
「せやけど、なんや」
「俺、なんかあの時――社長に負けたような気がして」
「……は?」
俺が答えを零した瞬間、アユミの強まっていた語気と震えが、スポンと抜けた。
「ほ、ほら。そういう反応になるっ」
「……ええから続けてや」
「……あ、あのとき。社長がアユミの居場所を作ろうと一生懸命、あの手この手で、便宜を図ってくれてはったんは……俺にもよう伝わってた。従業員の面倒見なあかん、自分の立場だってあんのにな」
「……」
「それに引き換え……当時の俺はまだ子供で、アホで、おまけに力も弱い。アユミのためにしてあげられることが、何ひとつなかったんが嫌で嫌でしょうがなかったんや。せやから、東京のいい大学で勉強して……社長よりもっとたくさんの人を助けられる、なんというか……ビッグなジャーナリストになりたいと思ったんや……」
どんどんと顔が熱くなっていくことにもめげず、俺が真剣に語る一方で――アユミは真顔のまま、目をパチパチと瞬かせていた。
「こ、こんなアホなこと、言えるわけないやろ。だから俺……」
「……なんか、色々と聞きたいことが増えてしもた気がするけど……先に一個、聞いて良いか?」
「……どうぞ」
「なんでそこで、“アユミのため”って言葉が出てくるんや」
「え」
アユミは顔を更にずいっと近づけながらも、さっきとは違う眼差しで俺を見つめてくる。
「なぁ、なんでなん」
「……そ、それは」
俺は観念して、深く息を吸った。
もう、どうなっても知らんぞ。
「……だって、しゃあないやん。10年前のあの日から、俺はずっとアユミと一緒にドライブインで楽しい時間を過ごしてきた。少なくとも、俺はな」
「……」
「だから、なんというか……その、悪しからぬ感情というか……途中から“良いな”って思ってしまうのも……しゃあないやんかっ」
絞り出すような言葉とともに、俺は視界からアユミの姿を外した。
これまでの関係が壊れてしまうかもしれない、本音の言葉。
それを聞いたアユミが、そんな反応を見せるのかが、俺は怖くて、怖くてたまらなかった。
「――シュン。ウチを見て」
しかし、彼女はそんな俺の頬に両手をぐいっと添えて、半ば強引に自身の顔を視界に入れてきた。
答えの見えない表情の外で、黒いウィッグに包まれた髪が靡いている。
心拍が跳ねあがる感覚に苛まれ、目があちこち泳ぎながらも、俺の視界にふたたび収まったアユミは、やがて口を開いた。
「……ウチの今の姿、誰かに似てると思わへんか」
「え……誰も何も、似てるのなんて昔のアユミくら……」
俺は困惑しながらも、彼女の問いかけの真意を探りつつ、懸命に記憶を巡らせていく。
そして間もなく、ある一つの答えが思い浮かんだ。
「――玲さん?」
「……当たり」
アユミは短く言葉を零しながら、コクリとうなずいた。
「あの晩、なんで社長がウチを気にかけてくれたんか。その理由が分かったんは一年半前――あの人に、実の娘がいるって分かった時やった」
「……アユミ、まさか」
「……そう。もしかしたらウチは、はじめからポン付けの――娘代わりやったんかもしれん」




