36.田中電工 『卓上型ナイトパネル』
「……なんやここ……」
ほんの少し前から、目は覚めていた。
しかし、この空間に流れ続けている、名も知らないUSENの落ち着いたBGMに包まれる中。
視界が晴れ、こうして頭が回るようになったのは――たった今のことである。
……よし、よし、OK。
いったん状況を整理しよう。
俺は今、大きなベッドらしきふかふかの上で、ツナギ姿のまま大の字になって、仰向けに倒れている。
眼前に広がるやたらと広い天井は、一般家庭の寝室にしては、一面に貼り巡らされた柄つきの天井シートの癖が強すぎる。
さらに、家庭ではあまり見かけないタイプの埋め込み型照明が、所々で控えめな光を部屋中に落としている。
だからここはおそらく、佐藤さんのお宅ではない。
上体を起こし、ヨーロピアンな花柄の壁紙と、ツルツルの固そうな白いタイル床に覆われた、この薄暗い空間を見回す。
向かって右手には、冷蔵庫とおぼしき四角い扉や戸棚等が埋め込まれ、さらには大理石調の天板の上にケトルやお茶のパックが置かれた、やたらケバケバしいキャビネットがある。
反対の左手には、板戸で閉め切られた開きそうにない窓と、原色の赤い革製のソファに、メニュー表のようなものが置かれたアクリル天板のローテーブルが配置されていた。
奥側にはいくつかの扉とクローゼットが見えた。
靴箱もあるので、きっと突き当たりのドアは出口だろう。
そして、その手前の通路にある扉の向こうからは――さっきからシャーシャー、ピチャピチャと、何かしらの水音が響いている。
総じてゴージャスだが、高級感はない。
ハイカラだが、都会的ではない。
そんな空間の印象が、鮮明に脳裏に焼き付いた。
ベッドを降りて偵察しようとすると、その縁に触れた俺はあることに気付き、驚愕した。
「ベッドが丸い……」
なんだこれは。
そう思った矢先、ベッドの枕側になんだか物々しいスイッチがひとつ付いているのを発見した。
恐る恐る押してみると――何も起きなかった。
よく見ると、スイッチのすぐ下に貼られたマスキングテープに、『故障中』と書かれていた。
ほっとしたような、ガッカリしたような。
そんな心境のままスイッチから目線を上げる。
すると、今度は枕のすぐ後ろ側に、青い間接照明が煌々と輝く、つやつやの黒いへッドボードが視界に入った。
そこには無数のスイッチが付いた何かの操作パネルと、内線用の古い電話機、コンセント。
――そして、白いコケシ型のマッサージ器に、四角い何かの袋が乗った小さな台座が、当たり前のように鎮座していた。
思わず息を呑んだ、ちょうどその時。
入口近くの扉から水音が消えて、中で何かが開く音がした。
身構える俺だったが、音の主が現れることはなく、代わりにドライヤーとおぼしき音が新たに響きはじめ、『猶予を与えられたのだ』と直感した俺は、ひとまず胸を撫で下ろした。
「……まさか、そんなはずないやろ」
俺は乾いた笑いを浮かべる。
……いや、本当に喉が渇いている。
そういえば、俺は佐藤家のズブロッカで喉を焼いているのだ。
致し方のないことである。
ここがビジネスホテルか何かなら、きっとウェルカムドリンクのミネラルウォーターなんかが冷蔵庫に入っているはずだ。
そう思い、改めてベッドから足を下ろすと、タイルの床は思った通り固く、ひんやりしていた。
こんな床のビジネスホテルは見たことないが、何せ見知らぬ土地だ。
こういうコンセプトのホテルがあるのかもしれない。
ケバいキャビネットの前まで移動し、そこに埋め込まれた冷蔵庫とおぼしき四角い扉を開く。
しかし、現れたのは冷蔵庫ではなく、衣装や玩具が売られている小さな自販機だった。
……何のとは言わないが。
「……この自販機と同型の残骸、うちの倉庫にもあるわ……」
我が家とのイヤな共通点を見い出してしまい、オトンの顔を思い浮かべながら眉間に手を当てた瞬間――
とうとうドライヤーの音がふっと消え、ほどなくして扉の開く音と、少し呆れ気味な、いつものしゃがれた声が背後から聞こえた。
「……えぇ、買う気なんか……」
何やらよからぬ誤解を受けていることに気付き、背筋が凍る思いだった。
俺は慌てて振り向きながら、努めて冷静に言葉を返そうとした。
「ちゃ、ちゃちゃちゃいますがなっ! ガハハ……そんなわけっ」
――振り返った先にいたアユミを目にして、自然と言葉が消えた。
普段は纏められている後ろ髪が全て下ろされ、自由となった金髪の一本一本が、纏った純白のバスローブの肩にフワリと掛かっていた。
そして、ほどよく温まっているのか、アユミはどこか角が取れ、しっとりとした雰囲気を醸し出していて、いつもの彼女とはまるで別人だった。
「……あんまし、ガン見せんといてや……」
「す、すまん……」
アユミが顔をプイと逸らすと、いつものサイドの髪と、長い後ろ髪が一緒にさらりと靡く。
ひとこと謝った癖に、俺はそんな彼女の姿から目を離せずにいたが、それ以上の文句は何も言われなかった。
「……なぁ、アユミ。ここって……」
「……ラブホやけど」
「んぐっ」
いや、やっぱりそうなんかよ!
昨日、高速を降りてロードサイドを眺めていたとき、ポツリとラブホがあったことは覚えていたんだ。
だから、薄々分かってはいたけどさぁ!
「……まぁいうて、冬でも流石に2日連続でシャワー無しはキツいし。かと言ってこの辺に普通のホテルはあらへん。別におかしい選択やないやろ」
「ま、まぁ……うん。それはそうやな」
実際のところ、あのまま佐藤家に泊まらせてもらうことは……ちょっと恐れ多くて出来なかった。
酔った後の記憶がないことも不安材料だが、何よりも今日は、佐藤家の皆さんに本当に良くしてもらって――本当に救われた気持ちになれた。
だからこそ、これ以上の好意を受け取り続けるわけにはいかなかったことは事実だ。
「……そういえば。お酒の席ではその、すまんかったな。俺、あまりあの後の記憶がなくて」
「ん、あぁ……」
まさか、一杯の酒であぁなってしまうとは……情けない。
本当に、佐藤家に迷惑をかけていなければいいが……。
「アユミがここまで連れてきてくれたんやろ? おおきに、助かったわ」
「ん……そうなるの、狙ったから……」
――ん?
「……そ、そうか。しかし、なんや、ラブホなんて初めて入ったけど……なんや結構広くて、なかなか悪くないもんやな。この何故か丸いベッドもふかふかやし、この独特な空気が……なんかこう、独特やん! 案外そういう目的以外の人が来ることも多いって言うしな! あは、あははは……っ」
俺が目を泳がせながら、ひたすら思い付いた言葉を前借りのように飛ばしまくっていると、眼前のアユミも俯くようにして何故か目線を逸らしながら、ぼそりと呟くように――
「初めて、なんや」
――しかし、微かに弾むような声色でそう零した。
「え、え、どうし」
「……シャワー浴びてきいや、シュン。……風呂、結構広かったで……」
……ほんまにどうしたんや、アユミ。
なんで……話し方までそんな、しっとりしてもうてんねん。




