31.トーヨーベンディング 『ミル挽き珈琲 自動販売機』
中国自動車道に乗り入れて間もなくのこと。
俺は窓の外を等間隔で流れていく光を眺めつつ、シビックの固いバケットシートから時おりケツに伝わる上下方向の振動を、ありありと感じていた。
「俺、中国道なんて久しぶりに乗ったんやけど……道こんなガタガタやったっけ」
俺がアユミに問いかけると、運転席の彼女は首を静かに縦に振った。
相変わらず反応は薄いが、さっきまでの徹底的な無反応ぶりを思えば、まだ薄いなりに反応が返って来るだけマシだった。
俺に対して、何か怒っているわけでないことは分かる。
それでも、やはり俺は今朝――彼女を引き留めるべきだったのだろうと、思わざるを得ない。
「あ、アユミ。次のパーキングエリア入ってくれるか? 俺、お花摘みに行きたいなぁ、なんて……ガハハ……」
「……よその花は勝手に摘んだらアカンやろ」
「……ごめん、トイレ行きたいって意味です……」
「……はじめからそう言いや」
「すんません……」
……お、思わざるを得ないっ。
◆
「ふぅ……っ」
清潔なトイレを出ると、アスファルトと薄いガスの湿った空気が鼻をくすぐった。
現在地から察するに、この周囲は山に覆われているはずだったが、ひたすら真っ暗闇で何も見えない。
このオレンジの外灯で切り取られた狭いパーキングエリアと、その先に続く高速道路の無機質な空間だけがポツリと浮かび上がるこの光景が、今は妙に安心する。
「ウチも便所行く」と言って、トイレに入っていったアユミはまだ出てきていないようだ。
ひとまず俺は自販機コーナーを目指して、インターロッキングブロックに覆われ整然とした歩道をふらりと歩き始める。
スナックコーナーやお土産屋は、今は閉まっているようだ。
消灯された薄暗くも真新しい建屋の中は、ガラス越しでも清潔なテーブルや椅子が立ち並び、昼間の賑わいを想起させた。
そして、その傍らで煌々と青白い光を放つ、現代の自販機がずらりと立ち並ぶさまは、うちのようなドライブインとはやはり趣が異なった。
「パーキングエリアと言えば、やっぱこれやんな」
俺が選んだのは、この場で豆を挽いてからコーヒーを提供してくれるタイプのカップ自販機だった。
コーヒーの濃さや砂糖、ミルクの量を決められるボタンですべてを最大にして、ジャンボサイズのホットキリマンジャロコーヒーを選ぶ。
気の抜ける軽快なBGMとともに、液晶画面には内部機構があくせく働いて、今まさにコーヒーを作っている様子が映し出されている。
うちの自販機にも、こんなカメラつけたら面白いかもなぁ。
でもそんなことしたら、風情ないか。
なんてことを考えていると、背後から足音が聞こえた。
振り返ると、キティちゃん財布を手にしたアユミが、そこでじっと待っていた。
ウィーンと音を立て、取り出し口から出てきたコーヒーを回収し、アユミに場所を譲る。
すると彼女は無言のままじっと悩みはじめ、やがてホットミルクセーキのボタンを押した。
「アユミ、あのベンチでええか」
「……ん」
アユミの短い返事を確認して、パーキングエリアの隅にあるオレンジの光に照らされたベンチに、二人で腰をかけた。
眼前に広がるのは絶景ではなく、大小さまざまなアイドリング音を立てながら、白線上に並ぶトラックやトレーラーたち。
そして、ロードノイズを上げながら本線を走り抜けていく、遠いヘッドライトの光。
唇に細心の注意を払いつつ、フタの小さな飲み口から熱いコーヒーを味わう。
不自然な苦さと、平均量を超えた砂糖とミルクが生みだす歪な甘ったるさの組み合わせが、未だ見ぬキリマンジャロの山々の景色をよりいっそう遠のかせていった。
「んぐっ」
アユミは、少しだけ口を火傷したらしく、小さく呻いてはすぐに黙った。
心配になって彼女の顔を見ると、プイとそっぽを向かれた。
そうして俺たちはしばらくの間、徐々に飲みやすい温度へと下がっていくカップ飲料を、静かにチビチビと飲み続けた。
「そういえば俺、この手の自販機のミルクセーキとか飲んだことないわ」
それは、俺が何の気なしに発した言葉だった。
するとアユミは少し間を置いてから、自身のカップをすっと差し出してきた。
「……ん」
「え。あ、じゃあ……」
思いがけない行動に戸惑いつつも、俺は彼女の好意を無下にするわけにもいかず、カップを受け取った。
隣で夜風に当たりながら、どこか遠くを見つめているアユミの荒れた唇と、フタの飲み口をしきりに見比べる。
そして、ゆっくりとカップの蓋に口を当て、ぬるくなり始めていたミルクセーキを少しだけ味わった。
「あ、甘い」
「……それはよかったわ」
嘘だった。
本当は、味なんて分かっちゃいない。
「あ、アユミも……俺のコーヒー飲むか? よそじゃ味わえん、俺の生み出したスペシャルテイストやで」
「……いや、ウチはいい」
ミルクセーキのカップを返すと、アユミは穏やかな声色でそう答えた。
――まだ、話せそうにないか。
俺は、彼女がミルクセーキを飲み干すまで待ってから、もはや常温と化した残りのコーヒーを一気に流し込んだ。
「ぷはっ。いよぉし……ここまでご苦労さん、こっからは俺の運転やっ」
「……え」
「たまには助手席で、ゆっくり車窓の景色でも楽しんどり! がっはっは!」
「……え……えっ」
◆
――このシビックは、もしかすると俺には過ぎた車だったかもしれない。
公共交通機関の発達した東京で過ごした、2年に渡る空白の運転歴。
そして、交通量の少ない地元の道で数回、軽トラを走らせただけの俺のドライビングテクは、残り210㎞の道のりをまるでシルクロードの如く、遠大なものに錯覚させた。
助手席に座るアユミを一瞬見やると、彼女はドア上の取っ手を片手で掴みながら、もう片方の手で前を指し示した。
「ま、前見いや、前っ」
「ひえっ……」
両手でハンドルを掴み、やや前のめりになりながら、どこまでも続くアスファルトをじっと睨む。
「あ、あっはっは……大丈夫や、大丈夫……多分」
アナログメーターの目盛りが80km前後を指した状態をなんとか維持しつつ、切れの良すぎるシビックのステアリングと、何かとカーブや穴ボコの多い中国道の癖に翻弄されながら、俺は少しずつこの車の特性を頑張って覚えようとした。
気が付けば俺たちは、15kmほどしか離れていない次の簡易パーキングエリアにいったん車を停め、二人して荒くなった息をふぅふぅと鎮めていた。
「あ、アユミ、大丈夫か……」
「……はぁ、はぁっ」
いやまさか、スポーツカーの運転がこんなにシビアだとは思わなかった。
……いや、なんもかんも俺が殆どペーパードライバーなんが悪いんやが。
「す、すまん。俺、もうちょい運転できる側の人間やと思ててんけど……」
「……いや、ウチもはじめは社長……」
俺が男としての自信を失いかけた瞬間、アユミは何か意味深なことを言いかけて、すぐに止めた。
「え?」
「……なんもあらへん。何事も練習ってことで、ええんちゃう……」
「そ、そうか。そしたら……もっかい頑張ってみるわ」
よく分からないが、もう一度チャンスを貰えたらしい。
アユミは一瞬何かを言いたげな顔をしたが、すぐに視線を前に戻した。
俺は気合いを入れるため、頬をペチっと叩く。
そして、気分転換を兼ねてスマホでおもむろに音楽を流し始め、ダッシュボード回りをキョロキョロ見回していると、アユミはその様子を見て首を傾げた。
「そか、この車ホルダー付けてへんのか」
「……シュン、何してるん」
「何って、ドライブに音楽は付き物やろ」
「……ふぅん」
あまりピンと来ていない様子だった。
アユミがシビックに乗る理由は、あのエンジン音にあったはずだから……それ以上の音の“ポン付け”はしない、ということなのだろうか。
「まぁ、俺の運転の時くらいは気分変えてみようや。ドライブインおると小室サウンドばっかり流れてきて、頭おかしなるで」
「……まぁ、ご自由に」
アユミはさらっとそう答えて、身をバケットシートに預けはじめた。
俺は金属製の武骨なシフトノブのすぐ後ろにある、平らな座席間スペースにスマホを置いて、再び車を発進させた。
◆
それから更にシビックを走らせていると、音楽で気を紛らわせたお陰か、俺も落ち着いて運転ができるようになっていた。
スマホから次々と流れる令和ソングを、アユミはどれも殆ど知らない様子だった。
それでも彼女は、視線を窓の外に向けつつ、時おり鼻歌未満の聞き真似メロディを一瞬だけ口ずさんでは、スンと黙るようなことを繰り返していた。
「……あっ」
しかし、途中でカーブの遠心力とガタガタ道の振動が合わさったことで、スマホがアユミの足下に落ちて、音楽も止まってしまった。
「す、すまん。拾ってくれる?」
「ん……」
彼女がスマホを拾い上げると、ロック画面がパスキー入力を求めていた。
「おおきに。ついでにパスキー教えるし、もっぺん音楽鳴らしてほしい」
「……ええんか、そんなん教えて」
「アユミやしかまへん。えっと、パスキーは……」
「……ん」
彼女が覚束ない手つきでパスキーを入力すると、アプリのアイコンの並んだホーム画面が現れた。
「シュン……音楽のファイルて、ここか?」
アユミが俺の了承を得る前に、おそらく無意識に“ファイル”と書かれたアプリをタップした瞬間。
――俺の全身の血の気が引いた。
「え……いや、ちゃうちゃう! そそ、それは開いたらアカン! 音楽のアプリは別にッ」
「なんやこれ……“純愛モノ”、“水着”、“女性上位”……」
アユミは、俺の“純愛モノ”と書かれたアンタッチャブルゾーン(正規購入ファイル)に踏み入った瞬間、指と目線がピタリと止まった。
「た、頼む、ホームに戻ってくれっ」
俺は情けない懇願を漏らしながら、車の前方も、そしてアユミが持つスマホの画面も、両方が気になってしまって仕方がない。
一方、アユミは一瞬だけじっとりとした目線を俺に送ってから、再びスマホ画面上で流れる動画に注目した。
そして、どう見ても30代くらいの女子高生と、だらしない身体の中年男性体育教師が、チープなロッカールームで聞き取りにくい会話を始めた辺りで、アユミは――
「……くっ、ききっ……くっ」
――とうとう、笑いを堪えられなくなっていた。
「や、やめて! はよ消して!」
「くききっ……ま、前見ときや、危ないやろ……くくっ」
嗚咽のような笑みを溢しながら、アユミは今まで見たことがない程、意地の悪い顔を見せていた。
「あぁ、ヤバい、始まるっ始まるっ」
「……くくっ、何が始まんねん」
「何って……ナニや! ってやかましいわ!」
「ききっ、くっ……まぁええやんか、令和の歌よりこっち流しとる方がよっぽどオモロイわ」
俺の顔が、すごく熱い。
今すぐ窓を開けて、冷えた夜風に当たりたいほどに。
そして同時に、パスキーなんて教えるんじゃなかったと深く後悔をした、その時だった。
「あーあ、かなわんわぁ……ききっ。そしたら、ウチもシュンに……ひとつ、教えといたる」
彼女はまるで、俺が考えていることを見透かしたようなタイミングで――
目に浮かんだ透き通った涙を、指で拭いながら言葉を零した。
「ウチ、たぶんもう瀬貝自工には帰れへんわ」




