29.Canon 『A-1 & NewFD50mm F1.4』
窓の外には、うっすらとした明るみを帯びた灰色の空が広がり始めている。
「――くそっ。なんか……あるやろっ」
スマホの白い画面に次々と表示されては流れ、流されていくだけの黒い文字が、眉間の神経にきゅうと締まるような痛みだけを押し付ける。
そのくせ、喉から手が出るほど欲しい文字列を欠片も見せることなく、それらは際限なくデジタルの海へと流されていった。
巨大資本に目をつけられた日本の小さな町が、どのようにしてそれに抗い、受け入れ――そして呑まれていったのか。
すがるような思いで、あらゆる事例を辿った。
しかし、これに完全に抗うことのできた例は、何一つ存在しなかった。
「……アカン、のか」
俺が深く息をつきながら、ボソリと言葉を漏らす。
すると、肩に触れていた確かな温かみと重みがすっと消え、アユミの寝覚めの吐息がふぅと耳元に当たった。
「か……かんにん、ウチ寝てしもて……っ」
「……アユミ」
俺は、無意識にその続きを口にしようとしていたことに気が付き、ぐっと飲み込んだ。
そんな様子を、はじめは寝起きの細い目で見つめていたアユミ。
ゆっくりと目蓋が見開かれ、そして再び細められる。やがて彼女は俺を真っ直ぐに見つめたまま――
ゆっくりと首を縦に振った。
◆
オトンが起きてきて間もなく、俺はつい先ほどアユミに話したことと、同じことを厨房で伝えた。
アユミは平静を保っているが、目線はどこにも合わせず、ただ行き場をなくしていた。
そして、椅子に座っていたオトンは「んん」と小さく唸りながら、いつにも増して重そうなでっぷりとした身体を起こし、口を開いた。
「そうか。色々ともう厳しいとは聞いとったが、こんなに早ように……」
「それだけやない……このドライブインのお客さんもかなりの割合、車乗って仕事してるこの町の人らや。この町唯一の車屋が潰れたら、うちだって……」
車社会で成り立つ田舎から、それを支える心臓が失われればどうなるか。
薄々分かっていたことだが、他の衰退地方の事例を調べれば調べるほど、そんな未来がいっそう鮮明になって、嫌でも脳裏に浮かんだ。
「……すまん。俺、あれからいろんな手を考えたけど、何も思い浮かばへんくて。ほんまに、ほんまに……すまんっ」
眼精疲労から来る頭痛が血管をきゅうと締め付ける中、地方政治と他社の経営判断という、知れば知るほど個人の感情や行動ではどうしようもなくなっていく事実のうねりに、俺はただ俯きながら呑まれていくしかなかった。
しばらくすると、俺の肩にごつく膨らんで、マメだらけになった手が置かれた。
「お前が落ち込むことやあらへん。遅かれ早かれ、このドライブインにも限界が来ることは……お前が東京行くのに反対せえへんかった時点で、とうに分かっとったことや」
眼前に立つオトンの表情はあまりに穏やかで、同じくらいの身長なのに、自分が小さくなったような錯覚を受けた。
続けて、アユミの落ち着いた声が背後から聞こえた。
「そやで……これは、シュンが胸痛めなアカンことちゃう。ウチの問題や」
靴が床タイルを踏み締める音がツカツカと厨房に響いて、やがて遠退いていく。
「アユミ。ど、どこ行くねん」
「……大丈夫、帰るだけや」
そして、アユミはそう言い残してスイングドアを乱暴に開いて出ていった。
何が大丈夫なのかは分からないが……おそらく大丈夫ではないのだろう。
きっと、彼女を追いかけるべきだ。
それを分かっていながら、足は不思議と動かなかった。
『俺の力では、アユミの居場所を守れない』
そんな事実がざわざわと胸の内を巡って、あっという間に頭の中を真っ白に染めてしまったからだ。
◆
気が付けば、俺は泥のように眠ってしまっていた。
窓の外はすでに暗くなりつつあるが、薄く雲のかかった空模様は相変わらずで、『何も変わっていない』ことを嫌でも思い知らされる。
時間が時間なので当然だが、アユミはまだ来ておらず、俺も何も腹に入れていなかったことを思い出し、急に腹が減ってきた。
居間に行けば、何か食べるものはあるだろうが、朝に話したときのオトンの顔がどうしても忘れられない。
力を失った身体は導かれるように、自然と階段を降りはじめ、スナックコーナーに足を運びはじめていた。
スナックコーナーには、俺の他にカメラを持った初老の男性客が一人だけ来ていた。
思えば、俺が生まれたとき……いや、俺が生まれるより遥か昔から、ここでうどんを提供し続けてきた眼前の富士電機製めん類自販機は、今もこうして何も語らず、電気の力で稼働を続けている。
硬貨を入れると、いつものように赤白く光るニキシー管の秒数表示が、カウントダウンを始める。
しかしよく見ると、十の桁の数字が0のまま動かなくなっており、一の桁も0になると数字は“00”のままで硬直した。
そして、しばらく待っていると、そのままうどんが取り出し口から出てきた。
表示器が修理できるのかどうか、俺には分からない。
そんな足下の覚束なさが、今まさに啜っているうどんから塩味を奪った。
昨日、アユミと一緒に食べたうどんは、あんなに美味しかったのに。
「ん、あれ……」
いや、違う。
本当に薄い。
よく見ると、やけにダシの量が多い。
このタイプの自販機は稀に湯切りに失敗して、お湯の混ざった薄いダシがなみなみ入った状態で出てきてしまうことを、ここにきて思い出す。
あぁ……なんもかんも、上手くいかん。
そんな気持ちのままうどん麺を箸でつまみ上げると、古い汎用自販機を撮影していた初老男性がにこやかに声をかけてきた。
「あぁ、当たりですねぇ。久々に見ましたよ」
男性からは以前のインスタ騒ぎで感じたような“浪費をする側の人間”の雰囲気は感じられず、不思議と悪い気はしなかった。
お互いに会釈だけをして、再び男性は自販機の撮影に戻る。
彼が手にしているカメラはやたらと年季が入っていて、シャッターを切るたびに中から何かを巻くような音が響く。
この人はきっと、物珍しさでこのドライブインの姿を切り取っているのではなく、昔から同じ方法で、同じものを残し続けているんだ。
俺は、そう直感した。
うどんを食べ終えると、俺もここの姿を無性に写真に収めたくなった。
格安スマホしかないけど、これだってれっきとした俺のカメラだ。
何かを残そうと思う気持ちに、質の良し悪しは存在しないはずだ。
そうして、俺は幼少期から当たり前のように見てきたこの光景を、何枚も何枚も、取り憑かれたように撮影し続けた。
単に、他にできることが思い浮かばなかっただけなのかもしれない。
それでも今は、これが唯一のできることだった。
俺はインスタを開いて、投稿ボタンを探す。
先日のように、すぐに大量のいいねが付くことはないが、それでも構わない。
この景色を自分一人だけの記憶として残すのではなく、今はただ一人でも多くの人の記憶に刻んでほしい。
そんな思いで、ありふれた写真を一枚一枚、キャプションを付けて、連投する。
――しばらくそんなことをしていると、インスタの画面下にある紙ヒコーキのアイコンに、ポツリとマークがついた。




