22.興和光器製造 『BL-8 双眼観光望遠鏡』
「……まぁ、そう思ってはったんやろな」
展望駐車場に差し掛かり、速度を落としたシビックがウインカーの音をカッチ、カッチと響かせるなか、アユミは淡々とした声でそう答えた。
VTECサウンドに包まれていた狭い車内で、俺がアユミに伝えたことは、玲さんが実際に話していた疑念の言葉の数々だった。
社長が、アユミとの接し方に迷っているかもしれないこと。
アユミに注げる社長の愛情に、限界が来ているかもしれないこと。
社長がアユミを、人として見ているかどうかということ。
そして、二人を離した方が幸せなのではないか、ということ。
「なんべんでも言うけど、俺は玲さんが言っとったことには、何一つ同意できひん。どれもあくまで疑念でしかないし、なんか誤解が生じてるんやとしか思えへん」
気がつけば、シビックは展望駐車場の白線に頭から入り始めており、やがてわずかな揺れもなく停車した。
「今の俺には、どこで話がこじれてんのか見当もつかへん。アユミさえよければ、知ってること教えてくれへんか? そしたら一緒に……」
「……ウチも、あの人に疎まれとることくらいは、なんとなく分かっとった。ただ、あの人がシュンにぶつけた言葉はウチというより、社長に向けた恨みごとな気がするわ」
アユミはシートベルトをパチンと音を立てて外しながら、俯き気味に言葉を零した後、さらにこう続けた。
「正直なところ、ウチもあの二人が複雑な親子なんやってことぐらいしか、ハッキリ分かってることがあらへん。親子のことやから、ウチはこれ以上首を突っ込むべきじゃないと、ずっと思っとった」
アユミは運転席のドアを開け、片足を車外のアスファルト上に置いた。
それを見て、こちらもシートベルトをゆっくりと外しはじめたタイミングで、アユミは再び口を開く。
「……せやけど」
「せやけど?」
「――シュンを、巻き込みよったことだけは許せん。何でそんなことをしよったんかだけは、ウチも絶対に知りたい」
アユミはやや力を込めて言葉を吐き捨て、車外に出てからドアを強く閉めた。
俺も慌てて車外に出て、すでに背中を向けて歩き始めていた彼女に声を掛けた。
「ど、どこいくねんっ」
「便所借りてくるっ」
「いや便所て、言い方……」
俺の間の抜けた声は吹き荒む風とともに消え、アユミは駐車場の奥側に備え付けられた、緑と青のプラスチック簡易トイレに向けて、肩を大きく振りながら躊躇なく歩いていった。
アユミの纏ったスカジャンが強風に煽られて時折めくり上がり、腰まわりの形がくっきりと出たスキニーに視線を向けていたことに自分で気がついて、俺は頬をペチンと叩いた。
「……なんか、悪い気せえへんな」
自分で叩いた後の頬を指でポリポリと掻きながら、視線を駐車場の周囲に広がる景色に向けて、シビックの傍にあった手すりにとりあえず手を置いた。
単純に、今までの場所より標高が高いからだろうか。
それとも、胸の内に燻っていたものを吐き出せたからだろうか。
眼前に広がるパノラマは、今日見たどんな景色よりも澄み渡って見えた。
「なんや、結構ええ場所やんここ」
この展望駐車場に来たのは久しぶりだが、相変わらず閑散としている。
整備された設備は、アユミが入っていった工事現場に置かれてそうな簡易トイレの他には、コイン式の古い双眼鏡が数基、そしてここから見える山の名前などが書かれていた、今は日に焼けてほぼ真っ白になった大きな看板があるのみだ。
ここは近年、だいたい今ぐらいのシーズンの早朝に、条件が整えば雲海が見られることが知られはじめている。
しかし、関西にはすでに絶景とされる雲海スポットが別に存在し、ロケーション等の要因でお客さん達はそっちに流れていきがちだった。
おかげで我らが県も、この展望駐車場の整備には、まったく力を入れていないことが窺える。
おまけに、今のような昼下がりの時間帯ともなれば、ここまで来ている車の数も少ない。
「きゃははは」
「みてー、めっちゃ高ーい!」
ただ、展望そのものは結構悪くない。
他に来ているお客さんも、その一点においては満足できているようだった。
それだけに俺は、『勿体ないなぁ』等とため息をつきながら考えていた。
「……なんやねんシュン、いっちょまえに黄昏て」
背後からアユミの声がして間もなく、彼女は隣までやってきて、同様に手すりに手を置いて、体重を預けた。
「……おかえり」
「ただいま。ここ、昼はこんな感じなんやな……」
「よう来るんか、ここ?」
「……うん。特に工場で寝れへんときは、自分とこ行く前後によう来るわ」
彼女は先日も、工場で寝られていないことに言及していた。
思えば、あれは今の社長と玲さんを取り巻く確執から、工場に居心地の悪さを感じていたのだと今になって理解できた。
「ウチ、ここは結構気に入ってるんや。雲海見に前乗りしに来た人らが車中泊してたり、金ないカップルがしっぽりやりに来てたり、やんちゃな連中のたまり場になったり……人の気配がほどほどに途切れへんからな」
「……一部、聞かんかったことにしとくわ」
ときどき思うことがある。
アユミは人とのコミュニケーションについて、諦観めいた雰囲気を見せる割に、意外と人嫌いではない節があると。
「とにかく……玲さんとの一件、早よ解決できるよう俺も協力するわ。アユミが一日でも早
く、工場でまた寝られるようするためにな」
「……とはいっても、ウチは今日からしばらくドライブインのバイトやから、何も知ることはできひんけどな」
「そうやった……」
我ながら、すっかり忘れていた。
アユミも『忘れてたやろ』みたいなじっとりした眼差しを向けてくるが、俺は意地でもそっちを向かなかった。
「――ほんまに、色々おおきにな」
しゃがれていながら、どこか凛としたお礼の声がしても――俺は顔が熱くなってしまって、そっちを向けなかった。
「あ、アユミ……ぼ、ぼちぼちいくか。もう行ってもいい時間やと思う」
「……ちょっと待って。その前に、あれだけ覗いてみたい」
そう言って、彼女は駐車場の奧側を指差した。
「……覗くって、あの車か? いやさすがに昼間っからはしっぽりやっとらんやろ」
「……サルかアホ。違うて、あれや」
改めてよく見ると、停まっていたハイエースのさらに向こう側に、コイン式の双眼鏡があることに気がついた。
二人でそれに近づくと、長年屋外に晒された双眼鏡は表面の塗装がボロボロに剥がれ、剥き出しになった素地が錆ついていながらも、現在も故障しておらず、使えることが分かった。
「夜に使っても、ほとんど麓に明かりがあらへんからな。昼やったら、どう見えるんやろってずっと思っててんっ」
らしくない早口になりながら、アユミはキティちゃん財布からいそいそと100円玉を取り出した。
カ、カチャンと何かに引っ掛かったような音を発しながらも、どうにか硬貨は底まで達したらしく、アユミは目を当てる部分を覗きこみながら「おぉ……」と声を漏らしている。
「ど、どうやアユミ」
「……なんか大きく見える」
「そらそうやろな」
アユミは至極当たり前な一言だけを発して、あとはずっと真剣に望遠の世界にのめり込んでいた。
やがて一、二分ほどすると何も見えなくなったようで、彼女は踏み台をなんとも言えない無表情のまま降りた。
「アユミ、どうやった?」
「……大きく見えたわ」
「……俺も覗いたろかな」
彼女の虚無な答えが逆に気になってしまって、俺も財布から硬貨を取り出し、双眼鏡を覗くことにした。
そして、早々に彼女の言葉の真意が理解できた。
「……どうや、シュン」
「……大きく見えるな」
「せやろ……」
肉眼で見た世界は素晴らしいパノラマだったのに。
個別に分けると特にこれといった見所のない、この周辺エリアの画角を望遠で絞ったところで、見える世界はただの木や、せいぜい奥側の日本海が多少大きく見えるだけなのであった。
「いや、100円も払ったんや。もうちょい元取れる使い方あるやろ」
「セコいセリフやな……」
俺は残り時間の焦燥に追われながら、もう少ししっかり覗けそうなものを探した。
一瞬だけ隣の地区のラブホテルが目についたが、アユミの『サルかアホ』というセリフがリフレインして、すぐに視界から外した。
峠道を画角に入れていると、ふとさっきまでいた『ビューレストランそが』が目についた。
今思い出しても、人の入りと建物からは想像もつかないほど料理に妥協がなく、隠れた名店と言っても差し支えのない店だった。
次に、瀬貝自工がもっと標高の低い所に存在した。
今でこそ複雑な事情を抱えた工場だが、社長や熊さん、アユミのように、働いている人たちは良い人が多い。
そして、最後にうちのドライブインを探そうとしたタイミングで、カシャンと金属のシャッターが閉まって、目の前が一気に真っ暗になった。
「終わってもうた」
「……なんやかんや、結構じっくり見てたやん自分」
「……いや、こうして外から見てるだけやと、何も分からへんことだらけや」
「ん……?」
不意に零した言葉に、アユミは首を傾げていた。
一方、俺の頭の中では――あるひとつの考えが浮かびはじめていた。
「……ドライブイン戻ろ、アユミ。ちょっと思い付いたことがあるねん」
「……ん、分かった」
やがて、シビックは再びエンジンを震わせはじめる。
俺はまず、アユミの問題を解決することと並行して、今の居場所もしっかりと守らないといけない。
この思い付きは些細でありながら、俺たちが少しでも前に進むためにきっと必要なものだった。




