21.ホンダ 『B16B型VTECエンジン』
俺がジャーナリストになりたいと思ったのは、10年前のあの夜。
一人の不器用で優しかったおっちゃんを傷つけた挙句、一人の女の子に向けて差し伸べられた手を、あわや振り払いそうになった体験がきっかけだった。
あれから俺は、誰よりも正確なことを知りたい、そして誰よりも正確にものごとを人に伝えられる人間になりたいと願った。
そんな願いを叶えようと必死にあがき、俺が大学の社会学部のメディア専攻で得た知見は――
誰かの欲した正確すぎる事実が、時に残酷で、時に人を傷つけるという現実。
そして、そうした牙を抜くための“言葉を選ぶ”という行為が、一歩間違えば事実を捻じ曲げ、永遠に無かったことにしかねないという底知れない恐ろしさだった。
「……すまん、アユミ」
アイスコーヒーがなくなるまで口を塞いでいたストローを、俺は観念したように、そっと口から離して言葉を零した。
「こればかりは、俺の口からはとても言えん」
「……ここはドライブインのスナックコーナーとはちゃうで」
手にしたストローで残り少ないオレンジジュースをかき混ぜ、キューブ氷とグラスが触れる音をキンと響かせるアユミの目には、はっきりと生気が宿っていた。
きっと彼女は彼女なりに、いまの俺が抱えている鬱屈とした感情を、すべて吐き出させようとしている。
これがアユミの渇望であり、そしてこの上ない優しさなのだということは、痛いほど理解できる。
「……すまん」
だから――言えない。
本当はアユミが知るべき事実を、アユミを傷つけることなく、そして漏れなく伝えられるような魔法の言葉が、俺には何も思いつかない。
さっきまでいた家族連れの客はいつの間にか帰った後で、俺たちの周りをいま包んでいるのは、厨房から聞こえる水の音と、水気を帯びた陶器同士が擦れ合う音だけだった。
「……アホかって」
肩をすくめるアユミの口から漏れたその一言は、呆れを含みつつも、憐憫や失望、罵倒といった意図は一切無いように感じられた。
「シュン、もうちょい流すで。どうせなら峠のてっぺんまで行ってみよう」
彼女は続けて、そう提案した。
俺は要領を得ないまま静かに頷いて席を立ち、そのあとレジへと歩みを進めた。
お会計は、二人で税込み1980円だった。
◆
再び、アユミの運転するシビックの助手席に座った俺は、いよいよ人の生活の気配が無くなっていく窓の外の景色を、ぼんやりと眺めていた。
なだらかな登坂が続き、車内に響くロードノイズとエンジン音はまだまだ静かだ。
そう思っていた矢先、運転席から独り言のような呟きが聞こえた。
「……ぼちぼちやな」
「ぼちぼち?」
幾度も曲がりくねり、どこまでも続いていくアスファルトの先の先を見据えながら、アユミは冷たいシフトノブに置いていた左手を軽く握った。
巧みにステアリングを駆使する彼女の全身は、完全な自然体のままシートに包まれている。
「この辺から、急登坂が連続し始める。あんまし人乗せて登ったことあらへんから、やかましかったら堪忍な」
「えっ」
なんのこっちゃと思ったのも束の間、ヘアピンカーブを抜けた先に、本当に壁のような急登坂がそびえ立ちはじめた。
この先の展望台まで車で登ったことがあるのは大昔のことで、そのときは周囲が霧に包まれていたこともあり、道がどうなっていたかなんて全く覚えていなかった。
「なんでこの車がやかましいんか、シュンに教えたるわ」
「な、なんや急に」
登りに入って勢いが落ちるよりも前に、アユミはペダル操作でクラッチを切り、シフトノブに触れる左手が素早くギアを二段ほど落としてから、すかさずクラッチを繋げ直す。
「今から言うことは……ずっと前にシビックのボンネット開けたとき、社長から聞いたことの受け売りなんやけどな」
そして、フットペダルを思い切り踏み込むと同時に、彼女は流れるように言葉を続けた。
「昔、ホンダのおもろいおっちゃんらがな。安くて走りやすいけど、ターボ積まへん自然吸気のちっちゃいエンジンの車で、どうやったら大出力エンジン積んだ世界の車にサーキットで勝てるかを真剣に考えたんや」
重力と慣性で身体が少しずつ後ろに引っ張られ、車内に響くエンジンの野太い唸りは、徐々に大きくなっていく。
「そんで思いついたんが“VTEC”っていうて、必要な時だけぎょうさん空気をシリンダーに取り込めるよう、エンジンが高回転域に達したときに吸気のバルブリフトを持ち上げて、一時的に大出力エンジンに化けさせるってやり方やってん」
難しいことはようわからんが、要はペダルの踏み込みを引き金に、エンジンがロボットみたいに変形するってことらしい。
「前に付いとるエンジンな、それまでローリフトカムとしてバラバラに駆動しとったロッカーアームがちょうど今、油圧のピンでガチャコンてひとつに連結したとこや」
理屈を考えるよりも先に、低音の唸りが一定まで上がった瞬間、エンジンは更にタガが外れたような甲高い咆哮を響かせはじめ――
俺も良く知るあの音に完全に切り替わったことを、即座に理解した。
「……この車は、社長がウチにくれた“声帯”なんよ」
「……声帯?」
「そのまんまの意味や。ウチはな、上手な声の出し方ってのが分からへん」
「……そんなこと、ないやろ」
乾いた高音に包まれながら、峠道の両サイドを覆い尽くす木々が、下へ下へと加速度的に流れていく。
「いや、ホンマにそうや。ウチが感情に身を任せたら、どうやってもド汚い言葉しか頭に浮かばへんようなってしまう……昔からそういう病気なんやわ」
アユミの自嘲とともに、頭の中からあれだけ騒がしかったエンジンの音がフェードアウトして、昨夜のドライブインで彼女が放った言葉の数々を思い出した。
たしかに口汚く怒声を上げてはいたが、俺はそれで確実に救われている。
だから、すぐにでも「そうではない」と言いたかった。
「――だからウチは、このやかましい音に感情を乗せることで、初めて上手に“叫ぶ”ことができるようになったんや」
しかし、それはできなかった。
なぜなら、アユミはこれまで見たことのないほどの満面の笑みを、今まさに花開かせていたからだ。
「ウチだって、心無いことを言われればちゃんと傷つくし、温かく迎えて貰えたら胸がぽかぽかする。悲しくても嬉しくても、感情のままに叫び散らかしてもいいんやってことを、社長が教えてくれたんや」
「アユミ……」
この瞬間、彼女の奏でるVTECサウンドが、再び車内を包み込んだ。
そして、ガードレールの外を埋め尽くしていた木々はふっと消えて、澄み渡る青いパノラマがガラス越しの世界に現れた。
「せやからシュン、社長が親代わりかどうかなんて関係あらへん。ウチがシビックに乗ってる間だけは話してや。傷ついたって――どうとでもなるから」
アユミの真剣な告白は、俺のタガを粉々にぶち壊した。
そして、それまで喉元の峠を越えることのなかったドロドロとした感情と言葉が、響き渡る甲高い音とともに自然と吐き出されていった。




