18.富士電機 『カップ式飲料自動販売機 FX22』
「――分かった、そしたら時間潰してから行くわ。ほな、またあとで」
スマホの通話を切ると、アユミはどこか遠慮がちに口を開いた。
「シュンのオトン、なんて……」
「バイト、かまへんって。ただ今はドライブインの消防点検来てはって忙しいらしいから、夕方以降にまたハンコ持って来てくれって」
そう言うと、彼女の強張っていた肩がストンと落ち、微かにふぅと息が漏れた。
「……わかった。ウチ、いったん着替えてくる。ソファで何か飲んで待っとき」
「着替える?」
「謹慎中なんやから、ずっとこれ着てるわけにもいかへん。それに、こんなとこで夕方まで待たせるわけにもいかんし」
アユミは今着ているツナギの両肩辺りを、両手の指でちょんとつまみ上げながらそう答えた。
「なぁ、アユミ。さっき……社長が言ってたことやけど……」
俺は、社長と話をしている間の彼女の様子が、どうしても気がかりだった。
あの場で投げ掛けられていた厳しい言葉と、アユミの落ち着きのなさ。
そして、ここ最近のドライブインに入り浸っている状況と、もしかすると何か関係があるのかと思ったからだ。
「……ちゃんと分かっとるよ、ウチも」
アユミはそう言って、住み込みの部屋がある建屋の方に向かって、そそくさと歩いて行った。
彼女の確信めいた口調に、俺は胸を撫で下ろした。
やはり、その線は薄いようだ。
無人となっている工場の待合スペースに残された俺は、室外から響き渡る機械や床の擦れる音に包まれるうち、なんだか急激に落ち着きを失ってしまい、ひとまず周囲をキョロキョロと見回した。
「……あ、無料のドリンクや」
やがて、来客サービス用のカップドリンク自販機が視界に入るや否や、俺の心はすぐに落ち着きを取り戻し、足を自然とそちらに運んだ。
無料で飲めるジュースほど美味いものはないからな、テンション上がるのも仕方ないで。
氷無し、カルピスサイダーの順にボタンを押すと、デジタルの秒数表示が出るとともに、取り出し口の黒く透明な蓋の向こうで、紙カップがカコンと落ちてきた。
そして、そこにゾゾゾと飲料が注がれる様子を眺めながら、俺は改めて先ほどのことを思い出した。
結局あの後、俺は社長と玲さんの前で服務規定に目を通し、ダブルワークについての制限がこの会社には特に存在しないことを確認した。
俺は昔、社長の口からこんな話を聞いたことがあった。
バブル崩壊から間もない不況の折、食うに困っていた車好きの仲間に片っ端から声をかけて、共にこの瀬貝自工を立ち上げたのだと。
中には、元々の仕事量が激減して、なんて事情の人もいただろう。
だから俺は、そんな人たちの間口を狭めるような真似を、社長はしないはずだと直感していた。
「……ぷはぁ」
カルピスサイダーの甘酸っぱさと程よいパチパチが喉を抜けて、肺の中の空気までもが澄み渡ったような気がした。
やっぱり、社長の根底は何も変わってない。
それなら尚更、今回の処分を下すに至ったあのスピード感と、俺たちにキツい態度をあえて見せた理由が、何かあるはずだ。
しかし、これ以上については、今は考えすぎても詮無いことだろう。
アユミの気持ちが落ち着けば、また知れることだってあるはずだ。
そう思い、俺は空になった紙コップを専用のごみ箱に捨てて、もう一度自販機の方を見た。
「次は何しよ。コーラもええけど、せっかくやったら原価率高そうなリアルゴールドとか……」
「――シュンさん」
ボタンに手が触れた、その時だった。
背後からおっとりとした、あの鈴の鳴るような声が聞こえたのは。
「……れ、玲さんっ。ちゃうんです、俺ホンマはコーラ選ぼうとしててっ」
「はい……?」
振り返ると、俺の発言に対して首をかしげる長髪の女性の姿がそこにあった。
二人の間に、リアルゴールドの注がれる音が割って入るように流れた。
「やっぱり人間、原価とかなんとか抜かしてへんで、ウマイもんには正直にならんとですねぇ~。コーラ最高! ガハハ……」
「……ふふ、面白いお人ですね」
この女性の端正で上品な顔立ちと、その佇まい。
そして纏った雰囲気は、やはりこの工場にはどうにも似つかわしくないように思えて、一瞬だけ心臓が妙な跳ね上がり方をしてしまった。
「……えと、玲さん……でしたよね。どうしはったんですか? 社長は……」
「えぇ、社長はいったん事務室に。私は……個人的に、シュンさんに謝罪へお伺いしたんです」
本人が長く京都に居たと言っていたように、玲さんの話し方はこの辺りのイントネーションとは異なり、同じ関西弁でありながらどこかゆるり、ふわりとした柔らかさを含んでいる。
「謝罪って……」
「先ほどは……父が辛い当たり方をしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
玲さんが深く頭を下げてきたため、またしても流されるように、俺も同調してブンブンと頭を下げた。
「いやいや、あ、頭上げてくださいっ。俺は昔から、ようあんな風に社長に怒られてましたし……今回は俺も色々勉強不足なところがありましたんで、怒鳴られてもしゃーないっていうか……」
「いえいえ。父は本当に昔から、亭主関白気質のそれはもう荒い人で……私らも、よう難儀してましたんよ」
「あはは、そうなんですか。お互い苦労してますねぇ」
「ふふふ……そうですねぇ」
にこやかに笑う今の玲さんから、さっきまでの冷淡な様子はどうも窺えない。
もしかしてこの人も、あの怖いお父さんの横で緊張していたんだろうか?
「あぁでも、それで言うと……社長がアユミに対してあんな言い方してるところは、初めて見ましたかねぇ。いつもはもっと甘やかしてるようなイメージがあったような……」
しかし、俺がアユミについて言及した途端――
「……そうですね」
――玲さんの笑顔がピタリと張り付き、言葉の丸っこさがスッと消え失せた。
同時に、急速に冷えゆく温度と高まる湿度を彼女との間に感じて、背中を指でなぞられるに等しい感覚に襲われた。
「父とアユミさんから、はっきりとしたお話を伺ったわけではありません。せやけど、おそらく父は……アユミさんとの接し方について、今も迷ってるんやと思います」
「……と、言いますと」
「たびたび、問題を起こしがちなアユミさんを保護し続けることに対する……経営者としての迷いなんか。それとも社長の座を明け渡すことになる私への、必要なケーススタディやと考えてはるのか……」
「いや……そんなはずは、ないでしょう」
穏やかな口調の中に、穏やかでない言葉がこう幾つも混ぜられていると、俺もさすがに『そうですね』とは言えなかった。
「いずれにしても……父のアユミさんへの当たりが強くなり始めてるんは事実。娘の私から言わせてもらいますと、これが父の愛情の限界なんやと思います」
「愛情、ですか」
「人より車が好きやったような父が……一時の感情で拾った子供を、ちゃんと人として見てくれてはるんか……それが甚だ疑問なんです」
……どうする、何て返す?
彼女の言葉に、一切同調はしていない。
しかし、眼前の玲さんが放つ言葉のひとつひとつの真偽が見出だせず、はっきりと否定できる材料が今はない。
そうして、俺が言葉を選びあぐねていると――
「もういっそ、二人は離してしまった方が――アユミさんも幸せなんと違うかなぁ」
取って付けたような敬語がすっと消え、玲さんは上擦った声とともに、何かがほどけたような無邪気な笑みをニパァと浮かべた。
「……あぁ、ごめんなさいね。シュンさんも色々とお考え事してはるのに、私ったら。ではこの辺で、おいとまさしてもらいます」
玲さんの表情が元に戻り、彼女はほどなくして浅いお辞儀をした。
それに対して、俺は……。
「……今回、アユミは謹慎中の食い扶持を稼ぎにうちに来るんです。その後のことは、アユミが決めることです」
頭は下げず、精一杯思い付いた言葉だけを口にした。
「……アユミさんを、よろしゅうお願いします」
玲さんの最後の返答は、あまりに当たり障りのないものだった。




