17.トヨタ 『セリカ GT-FOUR』
車を降りると、最初に鉄を切ったばかりの刺激臭が鼻をついた。
周囲を見回すと、山間の数少ない平地にびっちり敷かれたアスファルトの上に、風が吹けば飛んでしまいそうなトタン波板張りの建屋がいくつか建っている。
無数に引かれた駐車白線の数に対して、停まっている車の数は少ない。
そのうちの殆どを、今乗って来た車と同じく“瀬貝自工”と書かれた商用バンと、カスタムされたセリカ GT-FOURやS14シルビアといった、数台の奇抜な“従業員車両”が占めていた。
そして、その並びの中には見慣れたシビックの姿もあった。
「ここはなんか……変わってへんなぁ」
高台となっている敷地から道を挟んで反対側を眺めると、切り立った崖とガードレールの向こう側に、日本海へと向かっていく国道と、その両翼に広がる緑と山々のパノラマが一望できた。
そして、微かな硫黄の香りが風に乗ってやってきたところで、アユミの露骨に低い声が聞こえた。
「……こっちや」
すでに歩き始めていたアユミの背中を追って、俺たちはひと際古い建屋の、車両出入りのための大きな開口部から中へと入っていく。
視界が薄暗くなるとともに、床が光沢を放つ防水塗料に覆われはじめ、足を置くと時おりキュッという甲高い音が、レンチやナットが置かれる音、タイヤが床を蹴りだす音、遠くで洗車機が発する水の擦れる音と電子ブザー音に混じって、天井の高い建屋内に大きく響き渡った。
「なんや、もう謹慎終わったんけアユミ」
「……んなわけあらへんやろ。こいつが社長に会いたい言うたから、連れて来てん」
アユミの方に視線を戻すと、彼女は同じツナギを着た無精ひげの濃い、大柄な中年男性とぶっきらぼうな口調で話していた。
「熊さん、こいつ覚えてるか?」
「……すまん、誰やったかな……」
熊さんと呼ばれた人、すみません。
俺も、あなたをお見かけした記憶がございません。
「ドライブインの坊や」
「あぁ、ひよっさんとこのせがれか! そうかそうか……あんまし大きなってないなぁ」
ちょっと傷ついた。
「ご、ご無沙汰……してます? シュンです」
「いや、俺のことなんか殆ど覚えてへんやろ。俺ら、キミが寝とる時間にようドライブイン行ってたからな」
「すみません……」
「いやいや、別に謝ることちゃうで。それより、今日はどうしたんや。また昔みたいに社長に啖呵切りに来たんか?」
熊さんは、ガハハと笑いながら冗談まじりにそう言った。
しかし、俺が口をつぐんだままアユミと一度だけ目を合わせ、熊さんの方に視線を戻すと、彼は「あれ」とだけ言葉を漏らしてから神妙な表情に切り替わった。
「で、社長と……玲さんは?」
「……二人とも、今は奥に居てはるわ」
「そうか、おおきに」
アユミが熊さんにそう尋ねると、彼はそれ以上茶化すことなく建屋奥側のアルミサッシ扉を指で示した。
移動の最中、俺はアユミに一点だけ尋ねた。
「なぁ……その、玲さんって誰や?」
「……社長の娘さんや。いうても、ウチより八つくらい年上の人やけど」
アユミはどこか遠くを見るような表情をしながら、静かにそう答えた。
俺は、あの社長に娘がいるなんてことは一切知らなかった。
しかし、さっきその旨を口にしたアユミの様子はどこかよそよそしく、何だかヘンだった。
この違和感の正体は、いったいなんだ。
「――あぁ、イグニッションコイルのことやろが。コイルて略さんと、初めからちゃんとそう言わんかい。……あぁ、客が出しとるその予算やったら、サードパーティーでももうちょいましなモン付けたれ」
扉を開けると、そこにはガラケーを手に、椅子に座りながら誰かと話をしている社長と、その傍で静かにたたずむオフィスフォーマルの装いに身を包んだ、黒髪長髪の女性の姿があった。
張りのある声色こそ、昔と変わらない迫力を維持していたものの、社長の椅子の傍らには一本の武骨な杖が立て掛けられており、痩せこけた頬とぶかぶかなサングラス、厚みのなくなった上半身が不自然に左へと傾いたその姿から、かつての力強さは感じられなかった。
「おぅ、分かっとるわ。漏れたオイルが悪さして焼き付いとるんやろ。でもエンジン積み替えた方が良い言うたかて、無い袖は振れんやろが」
社長はこちらに気づいていないのか、構わず電話で話し続けている。
傍らの黒髪の女性は、どこか冷めた視線を一度俺たちに向けた後、社長の肩をトントンと叩いた。
「……社長」
「あ? ……あぁ、ちょっと待てや。とりあえず延命でも何でもええさかい、1気筒殺したまま走らすな。また峠道が通れんようなるで。ほな切るぞ」
ガラケーを両手で持ち、画面を目から少し離して通話を切ると、社長は俺たちの姿をキョロキョロと探してから視線を止め、やがて声をかけてきた。
「おぉ……シュンか、久しぶりやなぁ」
「ご無沙汰してます、社長。……目の病気やって聞いたんですけど、それにしては、その。目だけとはちゃうような……」
「難儀やろぉ。なんやっけな、視神経……なんとかかんとかっちゅう奴や。全身不自由で敵わんで」
社長が誤魔化し笑いを浮かべながら言い澱んだ様子を見て、女性がすかさず言葉を添えた。
「……視神経脊髄炎」
「そう、それや。去年の春、いっぺんにガクーンと発症してもうてなぁ。次、また倒れた時はどうなるか分からんさかい……今はこれに経営の引き継ぎしとる真っ只中なんや」
社長はそう口にしてから、隣の女性に向かって顎先で合図した。
「……瀬貝玲です。長らく母と京都におりましたので、日巡さんとは初めてのお顔合わせやと思います」
「ひ、日巡シュンです。いつも、社長とアユミ……さんにはお世話になってます」
玲さんが張り付けたような笑顔で、頭を下げた。
それに合わせるように、俺も慌てて頭を下げつつ、アユミの方をチラリと見やる。
彼女は無表情ながら、いつものような気だるげな雰囲気は鳴りを潜め、肩を強張らせながら前で重ねた両手の指をしきりに動かしていた。
「で、どないしたんやシュン。ただ挨拶に来たわけちゃうんやろ」
「――社長。アユミの謹慎ですけど、どないかできませんか」
俺は、来訪の目的を単刀直入に伝えた。
それに対し、社長は皺の寄った眉間を震える指で押さえつつ、静かに喉を唸らせながら口を開いた。
「……足運んでもろたとこ申し訳あらへんが、それはでけんわ」
「さっき、アユミはウチまでちゃんと頭下げにきました。営業妨害とおっしゃるんやったら、その件はもう不問にするつもりです」
「……ちゃうねん。おい」
社長が声をかけると、玲さんがスマホの画面を俺に見せてきた。
そこには短いながらも、正面から怒声を上げるアユミの一連の様子を収めた一本の動画が映し出されていた。
「……アユミが“瀬貝自工”のツナギ着て、客どやしとるところやな……。ちょっとの間、ネットに出回っとったんやと」
社長の言葉を耳にして、俺はふと昨夜の記憶を辿った。
そういえばあのベージュのコート着た女が、スマホをアユミに向けとったな……。
そう思った矢先、今度は玲さんが口を開いた。
「動画自体はネット上で大きく広がる前に、投稿者がすでにSNSアカウントごと削除しているようです。炎上騒ぎがアユミさん本人よりも、投稿者に対して矛先が向いたからやとか……」
「そ、そうですよね。そもそもアユミは、俺を助けるために来てくれたんですよ! 別に
瀬貝自工さんが炎上したわけでも、あらへんでしょう。それやったら……」
しかし、社長は決して首を縦には振らない。
それどころか、喉の唸りと語気を強めながら、さらに言葉を返した。
「――せやったら、ウチへのケジメはどないさしたらええねんや……アァッ!?」
「え……」
その怒鳴りは、あの10年前の夜に聞いたものと遜色のない迫力を含んでいた。
同時に、それまで社長に対して抱いた矮小化したイメージが、一気に霧散した。
「お前ももうガキちゃうやろッ! なんや、自分とこの従業員が余所に悪いことしよって、何もお咎めなかったらセーフで済ましよるんか!? お前信用なめとんのか、おぉ!?」
俺はその勢いと正論に押されそうになったが、なんとか踏ん張って口を開く。
「……なめとんちゃいます! それにしては、アユミの謹慎2週間は重すぎるんちゃいますかと言うとるんですわ!」
「この上なく妥当やアホンダラッ! コイツがウチの制服を着てやったことは、店舗への営業妨害に店舗ドアとテーブルへの器物破損未遂、そして立派な恫喝やッ、しっかり証拠まで残してなぁッ!!」
社長は、一歩も引く様子はない。
俺の背中を嫌な汗が伝う。
しかし、それは怒声の勢いに対してではなく、拭うことのできない違和感に対しての身体反応だった。
どないしたんや、社長。
あんたは、何があってもアユミに対してそんな言い方をする人やなかったやろ。
落ち着きのないアユミと冷めた瞳をした玲さんの様子は変わらず、俺は荒い息を吐く社長を前にして、自分に何ができるかを必死に考えた。
「……余所の人間が口出すな、これは会社内の問題や。従業員の不始末を、こっちは真っ当に処分しようとしとんのやさかい」
理屈の上では、俺はすでに納得してしまっていた。
彼の言うことはおそらく正しい。
「――でもッ」
でも、やっぱり俺は我慢ならへんかった。
このままアユミ一人が罪を被っていくことが、ただ許せなかった。
だからこそ、俺はまだ社長に食い下がる意志を見せた。
「でも、やあらへんわッ。ったく、お前は相変わらず――底抜けのアホや」
しかし、このとき社長が発した、その何気ない返事が――俺の中に、あるひとつの確信を生んだ。
同時に、サングラスの奥に微かに見える彼の瞳も、10年前と何ひとつ変わっていないのだと察した。
「……そしたら社長。俺に、御社が従業員と交わす雇用契約書を見せてください」
俺がそう発言すると、社長は何かを思案する様子を見せた。
一方のアユミと、その向かいにいる玲さんは俺の発言の意図を察せずにいるようで、冷静を取り繕いながらも、次の発言に耳を傾けようとしていた。
「別にええが……何が見たいんや」
「服務規定を見せてください。あとは社長と、アユミさえ問題なければ――謹慎期間中だけ、彼女をドライブインで働かせてやりたいんです」




