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皇帝陛下、側妃を辞めます〜この子は私が育てました〜  作者: 九葉(くずは)


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第9話|国境の名前、蜂蜜の瓶

国境は、ふたつの国を分ける線ではなく、ふたりの男の名前が並ぶ場所だった。


---


前夜、ハンナから奪還部隊の知らせを受けてから、私は寝なかった。


寝間の寝台に横になってはいたが、窓の外の雪の音に耳を向けていたら、いつの間にか夜が明けていた。


夜明け前、王宮から使いが来た。


「スヴェン六世陛下が国境へお出ましになる。ユーディト様のご同行を賜りたい」


私は、ヨーナスを連れていくかどうか、ハンナと相談した。


「奥様、殿下はお連れにならないほうが、よろしいかと」


「……ええ」


ヨーナスはまだ、帝国の奪還部隊のことを知らなかった。前夜の雪の中で「もう寒くないね」と言いながら寝入った時の顔を、私は最後に覚えていた。


ヨーナスをハンナに託して、私は王宮の馬車に乗り込んだ。


---


王宮から国境までは、半日の道のりだった。スヴェン六世陛下ご自身が、先頭の馬に乗って進まれた。ノルドグレン王の親征というのは、長らく無かったこと、と道中の武官が教えてくださった。


マティアス殿は陛下のお側におられた。私の馬車は、陛下の一団の最後尾に連なった。


途中、休息のために止まった時、マティアス殿が私の馬車の窓に近づいてこられた。


「ユーディト様」


「マティアス殿」


「まもなく国境でございます。陛下のお言葉があり、ユーディト様には、国境の直前にお立ちいただく場面がございます」


「――私が、ですか」


「ご本人が国境に立っておられる姿を、帝国使節に見せる必要があります。ユーディト様はノルドグレンの客人である、という公式の姿でございます」


「分かりました」


マティアス殿は頷かれてから、もう一言、付け加えられた。


「私は、ユーディト様のお傍に立ちます。もし使節側から何らかの動きがあっても、私の背が壁になります。ご安心ください」


「……承知しました」


---


国境は、峠の手前の開けた雪原だった。


ノルドグレン側に、スヴェン六世陛下の軍旗が立てられた。私は軍旗のすぐ後ろに立った。マティアス殿は、私の一歩前に立たれた。


向こう側に、帝国親衛隊の軍勢が展開していた。数が多かった。先頭に、軍装の使節らしい男が馬上から身を乗り出していた。帝国公用語で何かを叫んでいた。名目は同じ――「新皇子殿下の奪還」。


スヴェン六世陛下が、帝国公用語で、ご自分のお声で宣告された。


「新皇子殿下は、ノルドグレンの政治的庇護下にある」


帝国側の使節が、声を張り上げた。


「恐れながら、スヴェン六世陛下、皇子殿下は帝国の皇族でございます。帝国の継承権問題は、帝国内部のみで処理される事柄でございまして――」


「その問題が解決するまで、引き渡しは行わない」


陛下は、それ以上お話しにならなかった。


---


帝国使節の一団のうち、若い武官が数人、国境の線に近づこうとした。


マティアス殿が、私の前に一歩、身を進められた。


使節側の武官が剣の柄に手をかけるのが、雪の反射で見えた。マティアス殿のお手が、自分の剣の柄に、ほぼ同時に行かれた。


その時、私の舌の上で、一つの音が動いた。


「マース」


私は、呼んだ。


マティアス殿のお背中が、わずかに、動いた。


振り返られはしなかった。ただ、耳の後ろの筋が、一瞬だけ、こわばられた。


周りの武官たちにも、陛下にも、その一音は聞こえていなかったはずだった。聞こえていたとしても、誰も意味を知らない。北方語の愛称。マティアスを親しい者だけが呼ぶ呼び名。


七年前、リサンデル様が私にだけ漏らされた、あの方の愛称。


それを、今日まで、私は口にしたことがなかった。


---


帝国使節は、国境を越えなかった。


剣の柄に手をかけた若い武官は、使節長の短い一声で引き戻された。使節の一団は整列を直し、陛下への形式的な礼ののち、帝都の方角へ向かって戻り始めた。


陛下は、帝国使節の背を、長いあいだ、見送られた。見送りながら、マティアス殿に何かを仰った。北方語だった。私には単語のひとつが拾えた。「文書」。


後で伺ったところ、陛下は「このやり取りを外交文書に残す」とお命じになられたそうだった。帝国側が国境に兵を展開し、国境を越えなかった事実は、以後、帝国側の外交上の不利材料として残る。


撤退する帝国使節の列を、私はマティアス殿のお背中越しに見ていた。


マティアス殿は振り返られなかった。使節が十分に遠ざかるまで、お背中を向けておられた。


私は、もう一度、同じ音を口にしかけた。


出さなかった。


一度で充分だった。


---


王都の離宮に戻ったのは、夜だった。


ヨーナスはまだ起きていた。「お母さま、おかえりなさい」と、馬車の外まで走って出てきた。ハンナが後から追いかけてきて、外套を掛け直していた。


「ヨーナス、寒いわ。中へ」


「でも、お母さま、おかえりなさい」


「はい、ただいま帰りました」


私はヨーナスの額に手を当てた。少し熱かった。興奮していたのかもしれない。ハンナが、今夜はもう、殿下を寝間へ、と引き取ってくれた。


居間に戻ると、文机の上に陶器の瓶が置いてあった。


琥珀色の、小さな瓶。封の上に、北方の細工の紐が結ばれていた。


「何かしら」


「マティアス様からでございます。夕方、置いていかれました」


ハンナが、そっと言った。


「蜂蜜漬けの果実、とのことでした。ノルドグレンの北の養蜂家のもの、と」


私は瓶を手に取った。


蓋を開けようとした手が、一度、止まった。


七年前――私がまだ帝国の神殿に入る前――初めて宮廷の茶会に出席した日、私は緊張のあまり、甘味ばかりを口にしていた。その時、リサンデル様と、まだ召使のままだったハンナが見ていた。リサンデル様は後日、私にそのことを笑われた。ユーディト、貴女は甘い物に弱いわね、と。


その話を、私は一度だけ、リサンデル様宛の手紙にも書いたことがある。手紙は、神殿でリサンデル様の命日の祈祷のあとに、彼女の棺の横に置いたきり、誰も読まなかったはずだった。


――読まれていた、ということか。


マティアス殿は、リサンデル様の遺品を受け取られた時に、その手紙を目にされたのかもしれない。あるいは、リサンデル様ご自身が生前に話しておられたのかもしれない。


どちらにせよ、七年のあいだ、あの方は私の「甘味好き」を覚えておられた。


蓋を開けた。


琥珀色の蜂蜜の中に、桃の実が浸してあった。北方では桃は貴重な果実だった。どこで手に入れられたのか考え始めて、私は考えるのをやめた。


その瞬間、私は泣いた。


---


泣き方が、七年ぶりだった。


神殿で、リサンデル様を呼ぶ時の涙ではなかった。ヨーナスの額に手を当てて、声を殺す涙でもなかった。


椅子の上で、声を上げて、泣いた。


ハンナが横にいた。膝をついて、ハンカチを差し出された。


「――奥様」


「――ええ」


「七年目で、ようやく、お泣きになられましたね」


ハンナは笑っておられた。笑いながら、ご自身も泣いておられた。


七年分が、その夜、瓶ひとつの中に溶けて、私の頬を通っていった。


---


翌朝、離宮の庭の雪が、少しだけ減っていた。


溶けていた、と言うべきかもしれない。昨夜の涙と、たまたま時期が重なっただけかもしれない。北方の春は遅いと聞いていたが、この離宮の庭の日当たりだけは、王宮内でも特別なのだ、とハンナが教えてくれた。


ヨーナスが庭で、雪解けの土を指で触っていた。


「お母さま」


振り返った私に、あの子は笑いかけた。


「お母さま、ここ、土が見えるよ」


「本当ね」


「帝都では、土は、春まで見えなかったね」


「……ええ、見えなかったわね」


「北の国は、帝国より、春が早いの?」


「分からないわ」


私はヨーナスの隣にしゃがんだ。あの子の呼び方が、いつの間にか、変わっていた。


「お母さま」


ヨーナスは、二度、呼んだ。


帝都で「母上」と呼ぶ時の声と、少し違った。今朝の声は、もっと幼子に戻った声だった。母上、ではなく、お母さま。公の場で教えた呼び名ではなく、私たち二人だけの呼び名。


あの子が、それを、自然に選んだ。

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