第8話|聖星系譜の真相
王は私の手を取り、「客人」と呼んだ。それは帝国では失われて久しい語だった。
帝国で「客人」という呼称を一国の王が正式にお使いになった記録は、私の知る限り、ここ長いあいだ無かった。帝国は強い国で、他国の者を庇護するのではなく、庇護される側に来させる国だった。その帝国を出てきた私が、北方の王宮で、陛下ご自身から「客人」と呼ばれる立場に置かれた。
この語の重さを、私は、この時、まだ完全には理解していなかった。
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ノルドグレンの王宮は、帝国の皇宮よりも低く、広かった。
石造りの二階建てで、飾り柱はなく、太い丸太の梁が剥き出しになっていた。帝国のような金箔の装飾はなく、代わりに、狼や鷲を象った木彫りが、壁に掛けられていた。
玉座は、黒い木の低い椅子だった。座面に、一頭分の熊の毛皮が敷かれていた。
スヴェン六世陛下は、四十を越えられていた。体格の大きな方で、顔にはいくつかの古い傷痕が見えた。若い頃はご自ら戦場にお立ちになったと、マティアス殿からいつか手紙で伺っていた。
「ユーディト様」
陛下のお声は、よく通る低い声だった。北方語ではなく、帝国公用語でお話しになった。
「ノルドグレンへ、ようこそ」
「お招きいただき、ありがとうございます」
私は帝国式の礼をとった。陛下は頷かれた後、ご自分から席を立って、私のほうへ一歩降りてこられた。
王が玉座から降りられるのは、帝国の慣習では、ありえない動作だった。
陛下は、私の手を取られた。
「客人として迎える」
帝国語で、短く仰った。
「陛下」
私は頭を下げた。
「恐れ入ります。私は、帝国の側妃でございました。北方の賓客としてお迎えいただくには、私の立場には政治の影がつきまとうかと存じます」
「その影を、私は承知している」
陛下は私の手を離された。
「影があるからこそ、客人として迎える。影のない者を迎える意味は、王にはない」
陛下のお顔は、動かなかった。
マティアス殿が、陛下の斜め後ろに立っておられた。普段のマティアス殿ではなかった。主君のそばに立つ武官の顔で、ご自身のお顔を伏せておられた。
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同じ日、帝国中央大聖堂で星暦式典が執り行われていた。
星読み神官団は、聖星系譜の一節を公衆の前で読み上げた。
――星の教母の制度は、第一皇子の継承権を保証する儀礼の不可分の一部である。制度を廃することは、第一皇子の継承権を、その根において否定することに等しい。
オルストフ神官長のお声が、大聖堂の天井に響いた。母后アマリエは目を閉じられ、正妃ヘルガ様は額に手を当てられた。第一皇子コンラーディン様は状況をご理解にならぬまま母の手を引き、オトマール五世陛下は玉座の上で動かれなかった。
同じ日、神殿には帝国後宮付きの侍女からの告発文も届いていた。ヨーナス皇子の食事に催吐剤を混入したとする、厨房帳簿の写しと毒味役の証言。指図された主の名が、明記されていた。
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帝国新妃エリザヴェータの居室に、母后アマリエの足音が響いた。
「エリザヴェータ」
母后のお声は低かった。
「お前は、皇帝の心を得たつもりで、帝国の骨を折った」
「母后さま――」
「私は、お前を新妃として認めた日から、片手には剣を持っていた」
母后のお声には、感情が含まれなかった。
「お前の剣は、どこにある」
エリザヴェータは答えられなかった。答えるための言葉が、クィラル公領の書院で習った帝国公用語の中には、無かった。
母后が部屋を出て行かれる時、扉は閉められなかった。閉めるほどの価値がある相手ではない、という、最後の宣告だった。
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夜、私はノルドグレンの王宮の敷地内にある、古い客人用の離宮に案内された。
最近まで別の国の使節が滞在していたらしく、家具は新しく整えられていた。ハンナが、ヨーナスを寝間に寝かしつけた。今夜は、馬車の揺れのない寝間だった。
私は、自分の居間の椅子に、しばらく座っていた。
帝都を離れてから、すでに幾日か経っていた。日数を数えようとしたが、指で数える気にはならなかった。
マティアス殿は、部隊の後処理のため、王宮の別の棟におられた。離宮にはおられない。
しばらくして、扉の外で、物音がした。足音ではなかった。衣擦れの音と、金属の装具がわずかに鳴る音。
私は立ち上がって、扉を開けた。
扉の外の回廊に、マティアス殿が立っておられた。完全な武装ではなかった。ただ、帯には剣を下げておられた。
「マティアス殿」
「……失礼いたします」
「中へ、お入りください」
マティアス殿は、微かに首を振られた。
「ここで結構でございます」
「外は、お寒いのでは」
「この程度の寒さは、承知しております」
それ以上、私は言葉を継げなかった。
マティアス殿は、扉の前の回廊で、立ち番をされるおつもりらしかった。
「――なぜ、中にお入りにならないのですか」
「貴女が、帝国の側妃という立場を完全にお脱ぎになるまで、私は客人の立場でおります」
「……」
「貴女を守るためには、扉の外が正しい位置です」
私は、返す言葉を持たなかった。
扉を閉めようとしたが、閉めきれなかった。ほんの少しだけ、隙間を残して閉めた。隙間を残したまま、自分の寝間に戻った。
寝間の寝台に横たわってからも、扉のほうへ耳を向けていた。しばらくのあいだ、回廊からは、金属装具の微かな音が、時折、聞こえてきた。
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翌朝、私が支度を終える頃に、ハンナが青い顔で寝間に駆け込んできた。
「奥様」
「どうしました」
「国境に――帝国の軍勢が」
「規模は」
「三千、とのこと」
私は、一瞬、息を止めた。
三千。
マティアス殿の黒馬三十騎とは、比較にならない規模。ノルドグレンの王国全体の兵力にとっても、小さくはない数字。
「名目は」
「新皇子殿下の奪還」
私は、窓の外を見た。
北方の空は、帝都の冬の空とは違っていた。色が、薄い灰色ではなく、もう少し青が混じっていた。その青のあいだから、一筋の馬の蹄の音らしきものが、遠くから聞こえてくるような気が、した。




