第7話|凍った川、息子を呼ぶ声
氷の軋む音を、私は音楽のように聞いた気がする。
そう思ったのは、後になってからだ。その時は、ただの音としてしか聞こえなかった。金属の糸が引き絞られるような音。楽器に喩えるには、緊張が強すぎた。ただ、音が消えていく時の余韻の長さが、楽の音と似ていた、と記憶している。
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「峠の下を流れる川が、この冬、凍っております」
マティアス殿がそう告げられたのは、宿営を引き払う直前だった。
「川を渡られる、ということですか」
「馬橇で。馬車は重すぎて通りません」
私は頷いた。
行李の中で持ち出せるものだけを選び、ほかは置いていくことになった。帳簿の最後の冊を、私は迷った末に手元に残した。ハンナの帯の書簡は帯に挟んだまま。ヨーナスの毛布は、ヨーナスに巻いた。
馬橇は、北方の武官たちが手配しておられた。帝国の馬車より軽く、車輪のかわりに滑走板が付いている。雪の上を音を立てずに滑る道具だった。
「先頭、二台目、三台目の順で渡ります。二台目にユーディト様たちが乗られます。先頭と三台目は、護衛の位置でございます」
「承知しました」
ヨーナスはハンナの膝の上。ハンナは両手でヨーナスを抱いていた。両手を使うなら手綱は握れないが、そのための御者は、北方の武官のお一人が務めてくださった。
川の幅は、それほど広くはなかった。馬橇が並んで走っても余裕がある、と見える幅。
ただし、川の真ん中、一番深いところに、氷の色が少しだけ違う場所があった。光の当たり方か、下の水が浅くなっているのか、私には分からない。マティアス殿の部下の武官が、先頭の橇で旗を振って、左に寄れ、と合図を送られた。
左に寄った先頭の橇は、無事に通り抜けた。
二台目の私たちの橇が、その変わり目を通る時に、軋んだ。
軋むというより、鳴った。
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橇が、傾いた。
ハンナの悲鳴はなかった。ハンナはヨーナスを両手で抱えていた。悲鳴の代わりに、私のほうへ視線を送ってきた。「奥様」とも言われなかった。目で、ヨーナスをお願いします、と告げてこられた。
マティアス殿が、先頭の橇から飛び降りられた。氷の上を、走られた。
「ユーディト様、ヨーナス殿下を!」
「――はい」
私はヨーナスをハンナから受け取って、マティアス殿に差し出した。
マティアス殿がヨーナスを抱え上げられた瞬間、私たちの橇の下の氷が、さらに深く鳴った。
「走ってください!」
橇を離れて、ハンナと私は走った。ハンナの手を、私は強く握っていた。
対岸までの距離は、見た目より長かった。雪の上で足が滑り、一度、膝をついた。ハンナが私の腕を支えてくださった。
三台目の橇は、私たちの背後に来て、馬を止めていた。乗っていた若い武官が飛び降りて、橇を捨てて、こちらへ駆け寄って、最後の数歩で私とハンナの背中を支えてくださった。
背後で、二台目の橇が、半分ほど氷を破って止まった。馬は無事だった。
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対岸まで、私たちは辿り着いた。
北方の部隊が、対岸で控えておられた。宿営地から私たちの後を追い、河口の側からこちらに向かっていた部隊だった。合流した瞬間、武官たちは私たちを毛布で包まれた。ヨーナスにも、新しい毛布が掛けられた。
雪の上に、私は立っていた。
いつまで立っていられるかは、分からなかった。
マティアス殿がヨーナスを抱えたまま、振り返られた。帝国側の岸には、帝国親衛隊の馬が並んでいた。
――いや、並んでいた、ではない。
親衛隊の何頭かが、既に氷の上へ踏み出しかけていた。
マティアス殿が、ヨーナスを抱えたまま、帝国側に向かって声を上げられた。
北方語ではなかった。帝国公用語だった。
「――こいつは、私の息子だ」
氷の上で、馬たちの頭が止まった。
それだけだった。それだけのことで、親衛隊の列は動けなくなった。
既に氷に踏み込んだ馬は、慌てて後退した。親衛隊の長らしい武官が、馬上で何か叫んだが、聞き取れない号令だった。部隊は少しずつ後退を始めた。国境の向こう側で、再び列を作り直そうとする気配があった。
ただし、越えては来なかった。
「こいつは私の息子だ」の一言の後では、越えられなかった。越えれば、彼らの追跡の名目――「新皇子殿下の帝都復帰のため」――が、成立しなくなる。
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私は、足の力が抜けた。
膝から、雪の上に、崩れた。
ハンナが駆け寄ろうとしたのを、マティアス殿が手で制された。ヨーナスを抱えたまま、私の前に膝をつかれた。
「ユーディト様」
「……はい」
「ご無事です」
「ええ」
「ヨーナス殿下も、ご無事です」
「――ええ」
声が震えた。七年ぶりに、公衆の中で震えた。ハンナは横を向いて、聞いていないふりをしてくださった。
マティアス殿は、それ以上は何もおっしゃらなかった。ヨーナスを抱えたまま、私の前に膝をついておられた。雪が、マティアス殿の外套の裾を、少しずつ白くしていった。
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新しい馬車に乗り換えて、私たちは北方の内陸へ向かった。
馬車の中は、私とマティアス殿とヨーナスだった。ハンナは前の御者台で、北方の御者と並んでおられた。ヨーナスは、私の膝に頭を乗せて、眠っていた。橇の上での出来事を、あの子の記憶がどう処理するのかは、あとになってから分かることだった。
馬車がしばらく静かに走った。
「貴女は、知っていた」
と、マティアス殿が、静かに切り出された。
「……はい」
「七年前から、知っておられた」
「はい」
「それでも、この子を育ててくださった」
「――」
「私は、」
声を、出そうとした。
声が、出てこなかった。
「私は、」
その一言の後、言葉は続かなかった。
マティアス殿は、それ以上、何もおっしゃらなかった。
私の手の上に、マティアス殿の手が重ねられた。手袋越しだった。それだけだった。
馬車の外で、雪が音を吸っていた。
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夕方、私たちは北方の最初の宿場町に入った。
宿の前に、騎乗の武官がひとり、待っていた。帝国の紋でも、マティアス殿の部隊の紋でもない、別の紋章を胸につけていた。
「マティアス様」
若い武官が、馬上から礼をした。
「スヴェン六世陛下からの使者にございます」
「ご苦労」
「『ユーディト様とヨーナス殿下を、王都にお迎えしたい』、と。陛下ご自身のお言葉でございます」
マティアス殿は、私のほうへ顔を向けられた。
「ユーディト様」
「はい」
「陛下のおもてなしを、お受けになりますでしょうか」
一瞬、迷った。
「お受けいたします」
「承りました」
武官は頭を下げて、元の道へ戻った。
宿の前に残された時、マティアス殿が小さく言われた。
「陛下はユーディト様を、客人としてお迎えになります」
「――客人」
帝国では、客人とは、一国の王が外交上の敬意をもって遇する、一つの地位の名だった。つまり私は今日から、帝国の一側妃ではなく、北方の王国の賓客として扱われる。
「……ありがとうございます」
私はそれだけ答えた。
宿の窓の向こうで、北方の雪が静かに降り始めていた。帝都で見ていた雪より、粒が少し大きかった。




