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皇帝陛下、側妃を辞めます〜この子は私が育てました〜  作者: 九葉(くずは)


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第6話|雪のマント、遠い後宮

雪の焚き火の前で帳簿を閉じるのは、私には初めてだった。


七年、私は執務室の燭台の下で帳簿を閉じてきた。革張りの机の上で。銀の文鎮を乗せて。ページの端を指先で揃えながら。


今夜は、雪だった。


帳簿の表紙には、少しだけ雪が落ちた。焚き火の熱で、すぐに溶けた。溶けた跡の染みは、赤い絹糸の色を、いくらか濁らせた。


---


帝都を出てから、三日が過ぎていた。


初日は、街道を北へ、馬車の速度を落とさずに進んだ。追跡の早馬は、マティアス殿の部下が別方向へ誘い込む形で一度は撒かれたらしい。


二日目の朝、馬車は街道を外れた。このまま街道を北に行けば帝国親衛隊の補給拠点に着いてしまう、とマティアス殿は言われた。外れれば、山道の雪が深くなる。


「迂回する形になりますが、ご辛抱いただきたく」


「分かりました」


ハンナがヨーナスの毛布を何度も整え直した。山道に入ると、馬車の揺れは前日より大きくなった。ヨーナスは文句を言わなかった。半分は子供ならではの好奇心で、もう半分は、母のそばで眠る訓練をこの三日で身につけていた。


「お母さま、山は、寒いの」


「ええ、少し」


「北の国は、もっと寒い?」


「――もっと寒いと、聞いています」


私は答えた。ヨーナスは少し考えてから、私の袖に指を絡めて、目を閉じた。


三日目の夕方、マティアス殿が「今夜はここで野営します」と言われた。山の中腹の、風の吹かない窪地だった。


---


天幕は、すぐに張られた。


ハンナがヨーナスを寝かしつけている間、私は焚き火の前に腰を下ろした。外套を前に引き寄せ、行李の中から最後の帳面を取り出した。


七冊のうちの、赤い絹糸で綴じた一冊。今年の、今月までの分。引き継ぎ書を作成する際に、これだけは執務室に残さなかった。手元に置いて、持ってきた。


焚き火に入れるかどうかは、まだ決めていなかった。


焼くことで決着がつく部分もある。残すことで、いつか誰かが読む可能性もある。どちらが正しいか、この三日間、馬車の中で考えていたが、答えは出ていなかった。


頁を開いた。最後の記載は、数日前の、星読み神官団への献納品の目録だった。神官団の方々のお名前の横に、私は小さな記号を付けていた。素焼きを嫌う方、銀器を好まれる方、葡萄酒の空き瓶を持ち帰る慣習の方――すべて、私の指の動きひとつで伝わる符丁。


こういう符丁は、引き継ぎ書には書けない。


背中に、重みを感じた。


---


マティアス殿が、マントを私の肩に掛けられた。


羊毛の匂いが、帝国のものとは違った。もっと濃い、羊の脂の匂いが残っていた。北方の羊は冬のために脂を多く抱える、と、いつか手紙で読んだことがある。


「お寒いでしょう」


と、マティアス殿は後ろから言われた。


私は振り返らなかった。振り返る余裕が、まだなかった。


「ありがとうございます」


「貴女が今まで、ひとりで担っていた分を」


マティアス殿は、静かに続けられた。


「これから少しずつ、引き受けたいのです」


「――」


私は帳簿を閉じた。


閉じるとき、赤い絹糸が焚き火の粉で少し焦げたかもしれない、と思った。確かめはしなかった。


「ありがとうございます」


もう一度、そう答えた。ほかの言葉が、出てこなかった。


マティアス殿は、それ以上は何もおっしゃらなかった。


背中のマントは、しばらくのあいだ、そのままだった。


---


同じ頃、皇宮の執務室では、オトマール五世陛下が、星の教母ユーディトが残した引き継ぎ書の一頁を手にしておられた。


ユーディトが退去して三日。その三日のあいだに、後宮は機能しなくなっていた。


新妃エリザヴェータの身支度は、当の新妃が信頼できる侍女を決めるのに時間を要し、決まった侍女が髪結いの経験不足で手間取った。星読み神官団への定例の献納品の手配が遅れ、暦の切り替えに関わる文書のやり取りが止まった。昨日は、新妃のための朝食に出す果実の入荷経路が誰にも分からず、台所の長が宮中を走り回った。


昨夜、宰相コスタスが陛下の執務机に引き継ぎ書を置いていった。これをもって宮務を継続されたし、と。陛下は一睡もせずに頁をめくられた。


各項目には、業者名が並んでいた。シュヴァルツ、エーデル、アルテンベルクの三商会。三つの名の横には、「三家のうちから選ぶこと」と、それだけ。選び方の基準はなかった。


陛下は七年のあいだ、その基準を一度も問うたことがなかった。問う必要がなかった。ユーディトがすべて決めていた。


「彼女は、朕に、何をしていたのだ」


陛下は頁を閉じて、呟かれた。


呟きの相手は、誰でもなかった。


---


翌朝、夜明けとともに、出立の準備が始まった。


マティアス殿の部下の若い武官が、斥候に出たまま、朝の遅い時刻に戻ってきた。馬に跨ったまま、天幕の前でマティアス殿に伝えた。


北方語だった。


私にも、単語は聞き取れた。「峠」「先回り」「親衛隊」。


マティアス殿はしばらく黙っておられた。それから振り向いて、私のほうへ歩いてこられた。


「ユーディト様」


「はい」


「国境の峠で、帝国親衛隊が、我々より先に配置されておりました」


「先回り、ですか」


「もうひとつの街道経由で、我々より速く回ったのでしょう」


マティアス殿のお顔は、昨夜のマント掛けの時の穏やかさとは違っていた。武官としての顔に、戻られていた。


「迂回なさいますか」


「迂回は、できません」


「できない、とは」


「北方への峠は、この冬の時期、ひとつしか開いておりません」


私はヨーナスのほうを見た。


ヨーナスはハンナの膝の上で、昨夜の続きの眠りから覚めようとしていた。小さな手がハンナの袖を握っていた。


「それでは」


私はマティアス殿のほうへ向き直った。


「ひとつしかない峠を、通る方法を、お考えください」


マティアス殿はほんの少し、口角を上げられた。昨夜のマント掛けの時の笑みとは、また別のものだった。


「承りました」

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