第5話|十七条の朗読
羊皮紙の折り目を、私は七年前から知っていた。
神殿契約書の原本は、七年前、私が「星の教母」として任ぜられた日に、一度だけ見せていただいた。その時、神官長は折り目を作らずに全頁を広げられた。羊皮紙に折り目をつけることは、神殿の作法としては失礼にあたる、と伺った。
それ以来、私はあの契約書の原本を開いていない。
今日、私は原本を開く側の者になる。
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五日後の朝は、雪が止んでいた。
旅装は三日前からハンナと少しずつ揃えてきた。ヨーナスの分を先に、次に私の分、最後にハンナの分を。重ねて一つの革の行李に収めるのに、ちょうど足りる量を選んだ。多すぎると、気付かれる。
夜明けに、宰相殿からの使者が参った。
「本日、枢密院の招集がございます。新妃様と星の教母様とのご調整の件にて、ご同席をお願い申し上げます」
表向きの名目は、そのように伝えられた。
「かしこまりました」
私はあらかじめ用意していた外套を手にした。外套の内側には、羊皮紙の原本一冊を忍ばせるだけの内袋を、ハンナが縫ってくれていた。
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枢密院の間は、朝議の間より狭い。
楕円の卓を囲んで、陛下と宰相殿、五人の長老、そしてオルストフ神官長が、それぞれの席に着かれていた。新妃様は、この席にはおられない。枢密院に新妃の席はない。正妃様も、同じだった。
「ユーディト様」
宰相殿が口を開かれた。
「本日は、新妃様とのご関係を円滑にお取り結びいただくため、また、星の教母様のご任の継続について、陛下のご意向をお伝えする場でございます」
「ご意向、とは」
「制度の廃止につきましては、朝議にてご決定いただきましたが、星の教母様ご自身のご任の継続は、別の議論にてお考えいただきたく」
つまり、「制度は廃する。ただし、お前には役職のまま残れ」ということだった。
役職の名を変えるか、新妃の補助として星暦行事の進行を担わせるか。どちらにせよ、私はこの七年の地位を失った上で、新しい名目のもとに帝国に留め置かれる。そういう提案が、枢密院を通じて正式に出されるのだ、と理解した。
私は外套の内側から、一冊の羊皮紙の帳面を取り出した。
卓の中央に置いて、開いた。
五人の長老のうち、一番奥に座られていた方が、身を乗り出された。
「それは――」
「神殿契約書の原本でございます」
私は答えた。
「オルストフ神官長にお願いし、本日のお席にお持ちいただきました」
神官長が頭を下げられた。ただ一度、浅く。持ち運びはご自身でなされたものだった。
「恐れながら」
私は頁を指で押さえた。
「第十七条の読み上げを、お聞きいただきたく」
――星の教母の制度を廃するとき、側妃は、養育する皇子の同行を選ぶことができる。
沈黙が降りた。
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陛下はお声を出されなかった。
お顔が少しずつ青白くなっていかれるのを、私はまっすぐに見ていた。普段なら見ない。今朝は見る必要があった。見なければ、この日は終わらない。
「宰相殿」
私は陛下ではなく宰相殿のほうへ声をかけた。
「神殿契約書のこの条項は、神殿と皇族と実家の三者契約に基づく、当事者の権利でございます。本日をもちまして、私はこの条項を行使いたします」
「――」
「ヨーナス皇子を伴い、退去いたします」
宰相殿の顔色が変わられた。
「お待ちください、ユーディト様。まずは陛下のご意向を――」
「宰相殿」
オルストフ神官長が、初めて口を開かれた。
「条項の行使は、契約当事者のご意思に基づきます。神殿として、この条項の執行を認めます」
長老のお一人が、やはり身を乗り出された。
「しかし星の教母様。この条項は、神殿創建このかた、一度も行使されておりません」
「行使されないことは、条項が無効であることを意味いたしません」
私は冷静に補った。長老は口をつぐまれた。
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「陛下」
この時だけ、私は陛下のほうへお声をかけた。
「七年間、お仕え申し上げました。本日をもって、契約に従い、お暇をいただきます」
陛下は何もおっしゃらなかった。
ご視線は、卓の上に置かれた羊皮紙の頁から離れなかった。
私は頁を閉じ、羊皮紙を外套の内袋に戻した。誰も戻すなとはおっしゃらなかった。戻せとも、おっしゃらなかった。
枢密院の間を、私は立ち去った。陛下のお椅子が軋む音だけが、背中で小さく聞こえた。
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廊下では、ハンナとヨーナスが待っていた。
ヨーナスは小さな旅装姿だった。ハンナが朝のうちに着替えさせていた。
「お母さま」
ヨーナスが私の手を取った。
「行きましょうか」
「はい」
廊下には宮中の者が幾人か立っていた。誰もが、式典の気配を出さないように立ち止まっていた。帝国の皇族女性の退位は、通例、式典で送られる。式典なく退くのは、私の知る限り、例はない。
私は誰とも目を合わせなかった。合わせれば、誰かが何かを言おうとする。言わせないまま、廊下を抜けた。
外の雪は、やはり止んでいた。
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馬車は、帝都の東門に着けていた。
アスカロフ家の紋章をつけた、小さな馬車。父が昨夜のうちに送り出してくださっていた。
その馬車の隣に、黒馬の部隊が並んでいた。
三十騎。
各馬の装束に、北方の紋章はついていなかった。商人の荷駄のようにも見え、どこかの貴族の狩りの一行のようにも見えた。ただ、これだけの黒馬が揃うのは、帝都の門番には珍しい光景だったはずだ。
一番手前の黒馬の横に、外套の男が立っていた。
顔を、私は七年、見ていなかった。
「――ユーディト様」
敬語だった。身分は、彼のほうが下。帝国の側妃であった私に対し、北方の武官。礼法の上では、私が先に声をかけるべきだった。
「マティアス殿」
私は答えた。自分の声が、七年前に神殿の文書庫で初めて彼の名を口にした時と、ほとんど同じ温度であることに、少し驚いた。
マティアス殿は頭を下げられた。角度は、今朝、侍従頭が下げられた時と同じだった。
それから顔を上げて、言われた。
「髪が少し、伸びられましたね」
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それだけの言葉だった。
七年、手紙でしか言葉を交わしてこなかった方が、目の前で口にされたのが、それだった。
どう答えればよいか、分からなかった。
「ええ」
とだけ、言った。
ハンナがヨーナスを馬車に乗せた。ヨーナスは馬車の窓から、黒馬の一頭に向かって手を振った。あの子は、まだこの人たちが誰なのか知らない。
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馬車が動き出した。
私は後ろを振り返らなかった。振り返れば、帝都の門が、七年間見てきたかたちでそこにある。見ないでおくことにした。
並走する黒馬の先頭に、マティアス殿が乗られていた。
馬車の隣から、時折、部下らしい若い武官に何か指示を出されている。北方語だった。単語の区切りが聞き取れる程度には、私にも分かる。
しばらくしてから、別の若い武官が後方から駆けてきた。
マティアス殿のそばに寄って、何か伝えられた。マティアス殿のお顔が、一瞬だけ硬くなられた。
「ユーディト様」
馬車の窓から、声をかけてこられた。
「後方より早馬でございます。帝国の親衛隊、と」
「親衛隊」
「名目は、新皇子殿下の帝都復帰のため」
私はヨーナスのほうを見た。
ヨーナスは窓の外を見ている。黒馬の尾が雪の上を払うのを、目で追っている。今朝、母と一緒に皇宮を出たという事実を、まだ、遊びの延長のように感じているのかもしれなかった。
「振り切れますか」
「振り切ります」
マティアス殿のお返事は短かった。
「ヨーナス殿下のお足元を、毛皮で固めておいていただけますでしょうか」
「分かりました」
私は毛皮をヨーナスの膝に掛けた。ヨーナスが不思議そうに私を見上げた。
「お母さま、旅は、どこまで?」
「遠くまで」
私は答えた。本当にどこまで行くことになるのか、私自身、まだ、はっきりとは知らなかった。ただ、後ろの早馬が追いつけない距離だけは、確実に越えていかねばならなかった。
雪の上に、馬車の轍と、黒馬の蹄の跡が、長く続いていた。




