第4話|不完全な引き継ぎ書
七年分の帳簿を火にかけずに残すのは、赦しではなく、罰だった。
執務室の机の上には、七冊の革張りの帳面が重ねられていた。一冊に、一年分。冊ごとに色の違う絹糸で綴じていたのは、私の癖だ。最初の一年は青、次の年は緑、その次は黄、と、季節の色を記憶の補助にしていた。七冊目は深い赤だった。好みではない色だった。ただ、年の初めに絹糸屋がたまたま届けてきたのがその色で、替えずに使った。
ハンナが新しい茶を注いだ。
「奥様、もう二日、ほとんどお休みになっておられません」
「あと少しです」
私は帳面ではなく、真新しい紙束のほうを見ていた。新しい紙に、引き継ぎ書を書く。
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引き継ぎ書の冒頭には、宮務の区分を並べた。
星暦行事の進行および準備。神殿への献納品の調達。皇族女性の日常行事の監督。後宮の食糧調達および使用人の給与査定。皇子殿下方の教育係との連絡。各国使節との礼礼。祭祀記録の保管。
区分ごとにページ番号を付けた。番号の振り方は、宰相殿のお好みの古典的な方式にした。宰相殿の手元に渡れば、誰もが一目で「正確な書類」と判じるはずだった。
実際、正確な書類だった。
ただし、読んだ者が動かせる書類ではなかった。
例えば、星暦行事の食材は、帝都のシュヴァルツ、エーデル、アルテンベルクの三商会から調達する。三家のうちどこを優先するかは、その時々の状況による。紙面には「三家のうちから選ぶこと」とだけ書いた。選び方の基準は書かなかった。
例えば、神殿への献納品には、春分と秋分で決まった品目がある。ただし星読みの上位の方々には、品目ごとの好みがある。オルストフ神官長は素焼きの壺をお嫌いだ。書かなかった。書けば、別の意味を持って読まれる。
例えば、皇族女性の日常行事。ヘルガ様は葡萄酒の席を好まれない。新妃エリザヴェータ様は、クィラル公領風の絨毯の上ではお座りにならない。コンラーディン様の星位奉納の日は、正妃様のお体調が毎年崩れる。書かなかった。書くべきではなかった。
こうして引き継ぎ書は完成した。
読めば完璧な書類だった。動かせない書類だった。
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夕刻、実家アスカロフ家への書簡を封じた。
帝国東部の辺境伯家。父は六十を越えている。母は数年前に亡くなり、いまは兄夫婦と父が屋敷に住んでいる。私が皇宮に入ったとき、父は一度も「戻ってこい」と仰らなかった。書簡にも「星の教母として、父の面目を保たれよ」と、それだけだった。
今日書いた書簡も、短かった。
制度廃止により、しばらく実家に戻ります。
出立の日は追ってお知らせいたします。
ヨーナスを伴います。
これで父には充分だった。
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書簡をハンナに託した。
「早馬で、明朝のうちに」
「かしこまりました」
ハンナは書簡を受け取って、帯に挟んだ。帯に挟むのはこの家の古い作法で、重要な書簡は懐より帯のほうが安全だと、私の母がハンナに教えたらしい。いつか、どこかで聞いた話だった。
「奥様」
ハンナが帯から手を放して、私を見た。
「わたくしも、お供いたします」
私は顔を上げた。
「――ハンナ」
「奥様の行かれる先に、わたくしもまいります。ヨーナス殿下のお世話も、わたくしのほうが新しい侍女よりは慣れておりますでしょうし」
「あなたには、家族が」
「弟がおりますが、いまは医師見習いとして、もう奥様のご援助がなくとも一人で生きていけます」
ハンナの弟。私が七年前、治療費をお渡しした、当時の幼い子。あの子が、もう、医師見習い。
「――ええ」
私はそれ以上、言わなかった。
目の端が熱かった。ハンナの前で涙は流すまいと思ったが、流したかもしれない。ハンナは見ていないふりをされていた。
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翌日、陛下のお身辺を見られる侍従頭が、私の居室にまいられた。
ロータルではなかった。昨夜から朝にかけて、陛下が眠られなかった、と使いの者から聞いた。
「ユーディト様」
侍従頭は頭を下げられた。角度はいつもより深かった。
「陛下より、お申し伝えがございます」
「どうぞ」
「『星の教母の退位については、もうしばらく時を置いて熟考されたし』、と」
私は暖炉のほうへ一度、視線を向けた。薪が、少しずつ崩れていく音がしていた。
「侍従頭殿」
「はい」
「星の教母の職は、神殿と皇族と実家との、三者契約によって任ぜられたものでございます。私は契約の側の者として、契約の定めに従っております」
「……と、仰いますと」
「神殿契約書の十七条、ご存じでしょうか」
「存じ上げませんが」
「神殿の文書庫にございます。コスタス宰相殿が、写しをお持ちのはずです」
「……承知いたしました」
「それから」
私は静かに付け加えた。
「契約の解除は、陛下お一人ではなし得ません。神殿と実家の、双方の合意が必要でございます。私は既に、神殿と実家の双方に、退去の意思をお伝えしております」
侍従頭は目を伏せられた。
「……承って、陛下にお伝え申し上げます」
侍従頭が退出されるとき、戸の軋む音がいつもより長く続いた。
ハンナが戸を閉めた。
「奥様」
「ええ」
「陛下は、お気づきでいらっしゃらなかったのですね」
「おそらくは」
「お気づきにならないうちに、制度を廃されたのですね」
「……ええ」
私は暖炉のほうへ歩いた。薪が崩れ、赤い芯が覗いていた。火箸で一度だけ、芯をつついた。芯はさらに深く燃え、しばらくしてから、灰になって静かに落ちた。
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その夜、ハンナが運んできた書簡の束の中に、商人の封がしてあるものが一枚あった。
北方商人の封。いつもの商人の印ではなかった。あちらが何らかの事情で、間の者を替えられたのだろう。中身は北方語、一行。
五日後、帝都東門、黒馬三十。
それだけだった。
日時も時刻も詳細もない。ただ「五日後の東門、黒馬三十頭」。それがあの方の手配できる最小の合図であり、同時に、最大の答えでもあった。
五日後。
暦を引き直した。五日後の朝は、コンラーディン様の立太子の儀まで、まだ充分に間のある頃にあたる。つまり、私が星迎の儀の問いを朝議で置いてから、宰相たちが神官団と協議を始めるまでの、空白の期間。
私が動くのに、充分な時間だった。
「ハンナ」
「はい」
「旅装を、あの子の分から揃えましょう」
「――はい」
ハンナは問い返さなかった。帯に手を当てて、少し下げるような姿勢で礼をされた。
窓の外で、また雪が降っていた。




