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皇帝陛下、側妃を辞めます〜この子は私が育てました〜  作者: 九葉(くずは)


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第3話|祝い菓子と進行表

紋章入りの砂糖菓子が、私の息子の皿の上で割れた。


新妃様の手つきはむしろ優雅だった。薔薇を象った砂糖細工が二つに割れて、ヨーナスの皿にそれぞれ一片ずつ落ちた。その片方に、小さく紋章が刻まれていた。


薔薇の紋章。新妃様ご自身のものではなく、東方属国クィラル公領のもの。


つまりあの菓子は、「あなたは属国の家に片足を置きなさい」という意思表示だった。七歳の祝いの卓で、紅い薔薇の方は、そういう挨拶をされたのだ。


---


「星の庭」の東屋で、祝宴は開かれていた。


皇宮の中でも古い建物で、冬は乾いた枝と雪だけが眺めになる。ヨーナスはここの庭が好きで、落ちた葉を拾ってはハンナに名前を教わっていた。あの子の七歳の祝いを、私はこの庭で催したかった。


皇族の子の齢の祝いには、儀礼上、陛下がご出席になる。ただ今朝、政務が押しているとの知らせが届いた。来られないということだ。


正妃ヘルガ様と、第一皇子コンラーディン様はお越しだった。新妃エリザヴェータ様も、お越しだった。


コンラーディン様は九歳。ヨーナスより二つ上の兄で、朝議のことは何もご存じないはずだった。子供らしい顔で「今日は喧嘩をしない」と宣言しておられた。ヨーナスは「はい、兄上」と答えた。


新妃様が、菓子を割られた。


「星の教母、ユーディト様」


割られた薔薇の片方を、私のほうに。片方を、ヨーナスのほうに。それぞれ皿に落ちた音は柔らかかった。


「祝いに、わたくしの故郷の菓子をお持ちしました。お気に召すとよろしいのですが」


「恐れ入ります、新妃様」


私は頭を下げた。角度は正確に、いつも通り。


「殿下のお齢には、ちょうど良い甘さかと存じます。今日から、ヨーナス殿下には、もうひとりの姉として、わたくしがお見守り申し上げます」


新妃様は微笑んでおられた。菓子を割られたのと同じ手つきだった。


一瞬、庭のざわめきが止まった。


---


姉と母はちがう。


「姉として見守る」は、柔らかい響きの言葉だ。ただしこれを公衆の席で選ばれたということは、「母」の位置をこの場から押し退けるご意思だった。昨夜、陛下がヨーナスに直接お告げになった言葉の、昼の延長である。


正妃ヘルガ様が、私のほうへお顔を向けられた。目が合った。


正妃様は何もおっしゃらなかった。ただその視線は、昨夜の大聖堂で紅い薔薇を見ておられた時の視線と同じで、わずかに笑っておられなかった。


「――新妃様のお心遣い、感謝いたします」


私は答えた。声は意識して低く保った。


「殿下も、新しいお姉様からの贈り物を、大切にお受けいたしましょうね」


「はい、母上」


ヨーナスが答えた。教えた通りの角度で頭を下げ、紋章の入った一片には手をつけず、もう片方だけをほんの少し齧った。


それで充分だった。


「少々、宮務が残っておりますゆえ、先に失礼いたします」


私は立ち上がった。コンラーディン様が少し不思議そうな顔をされた。九歳は場の気配に敏感だ。


ヨーナスは私を追おうとしなかった。ちゃんと席にいた。それだけで、この子に七年を注いだことを間違っていなかったと思えた。


---


居室に戻って、私は暦を取り出した。


星読み神官団が毎年発行する帝国の公式暦で、儀礼の日取りがすべて書かれている。私が使ってきた写しには、余白に長年の書き込みがあった。


コンラーディン様の立太子の儀――三ヶ月後、新暦初日。


指はその項目で止まった。


帝国の慣習では、立太子の儀に際し、星読み神官団が星暦を奏上したのち、皇族の女性たちが「星の庭」で星迎の儀を執り行う。進行を担うのは、長らく星の教母だった。


昨日、陛下が制度をお廃しになった。


つまり三ヶ月後の星迎の儀を進行できる者は、いま誰もいない。


「ハンナ」


「はい」


「明朝の朝議、私も同席させていただきます」


ハンナは少し驚いた顔をしたが、余計なことは問わなかった。


「かしこまりました。支度をいたしますわ」


---


翌朝、朝議の間に入るとき、私は暦を両手で抱えていた。


昨日までは、私がこの場に立つ権利があった。今朝はない。ないはずだった。


「ユーディト様」


コスタス宰相が、私の姿を見てわずかに目を細められた。


「本日の朝議には、恐れながらお名前を頂戴しておりませんが」


「陛下に、ご進言申し上げたき儀がございます」


私は暦を胸の前に差し出した。


「星読み神官団の正式な星暦にて、コンラーディン殿下の立太子の儀の記載でございます」


陛下が首を傾けられた。「立太子」の語が聞こえたのか、あるいは私がこの場に立っていること自体に驚かれたのか、分からなかった。


「三ヶ月後、新暦初日。星迎の儀」


私は暦の頁を開いた。


「この儀の進行は、長らく星の教母が担って参りました。制度がお廃しになった以上、誰が進行をお担いになるか、ご確認させていただきたく存じます」


沈黙が降りた。


新妃様は、昨日と同じ微笑みを浮かべておられた。ただし、目は昨日と同じではなかった。


「新妃様」


私は呼んだ。昨日の祝宴の返礼と同じ温度で。


「星迎の儀の進行は、皇族のご婦人の中で、最も高位の方が担う決まりでございます。星の教母制度がお廃しになった今、正妃様、あるいは新妃様が、この儀をお担いになります」


「――わ、わたくしが?」


新妃様の声が、一瞬だけ音程を外された。


「はい」


「星迎の儀、というのは」


「四部構成でございます。星読みの奏上、皇子の星位奉納、旧暦送りの儀、新暦迎えの儀。各部に固有の唱和がございまして、帝国公用語ではなく、古典聖書語で唱えます」


古典聖書語、という語に、新妃様の指が、扇の上で止まった。


「古典聖書語の唱和は、帝国の皇族の女性が幼少から学ばれるものでございます。新妃様は、クィラル公領でどちらのお師につかれましたでしょうか」


「……それは、」


「もしお師が決まっておいでならば、三ヶ月で儀を執り行っていただけるかと存じます。まだでしたら、どうぞお早めに」


---


正妃ヘルガ様のほうへ、私は目を移さなかった。


目を移せば、ヘルガ様は「私が担います」とおっしゃるかもしれない。あるいはおっしゃらないかもしれない。どちらにしても、この場での私の役目は問いを置くことだった。


コスタス宰相が、私の前に一歩踏み出された。


「ユーディト様。その件は、また別の折に」


「宰相殿」


私は宰相のほうを見た。


「星迎の儀は、皇族の正統を星に奉上する儀式でございます。執行者が決まらないままでは、儀が成立いたしません。これは、立太子そのものの有効性にも関わります」


宰相の顔色が、微かに変わった。


法文主義の方だった。儀の有効性、という語がどこを指すかを、この方は即座にご理解される。


「……確認をいたします」


「どうぞ」


私は頭を下げた。暦は宰相に差し上げず、手元に戻した。


陛下は何もおっしゃらなかった。昨日までは、この場で「神官団と協議せよ」とお命じになる陛下だった。今朝は、何もおっしゃらない。


私は退席した。新妃様は昨日と同じ微笑みをまだ浮かべておられたが、微笑みの下は昨日より少しだけ固まっていた。


---


朝議の後、帝都の東門で、私は下賜に立ち会った。


毎月、アスカロフ家から貧困院に送る寒衣の下賜で、今月分は父がいつもより厚手のものを送ると知らせてきていた。


受け取りの責任者に礼を返したとき、品の箱の上に銀貨を一枚置いた。


礼金だった。ただし帝国のものではなく、北方ノルドグレンの銀貨だった。


「これは門番の方々へ」


と、私は言った。


責任者は少し不思議そうな顔をしたが、私はまだ「星の教母」だった。正式には退位していない。この場での指示は通る。


銀貨は門番には渡らない。責任者が処分する前に、門近くで商う北方の商人の目に触れる。あの銀貨の意味を知る者が、帝都に一人はいる。


あの方への合図になる。


---


その夜、ヨーナスを寝かしつけながら、私はふと手を止めた。


「お母さま?」


「はい」


「昨日、お姉さまが、姉として見守るって」


ヨーナスは毛布から顔だけを出していた。


「ぼくは、どうしたらいい?」


「ヨーナスのままでいてください」


「母上が困るなら、ぼく、」


「困りません」


私はヨーナスの額に手を置いた。髪の生え際は、いつの間にか少し硬くなっていた。子供の柔らかさから、少しだけ離れつつある。


「母上は、ちゃんと準備をしています」


「どこか、行くの?」


私は少しだけ笑った。


「母上は、ヨーナスと一緒にいます」


嘘ではなかった。一緒にいる場所が、三ヶ月後にどの地を指すかは、まだ分からなかっただけだ。


ヨーナスはそれで安心したらしく、目を閉じた。寝息が落ち着くまで、私は毛布の端を握っていた。


---


居室に戻って、私は文机の前に座った。


祈祷書を開いた。リサンデル様の命日の頁に挟まれた紙片の、右下がりの線。


窓の外で、また雪が降り始めていた。


私は呼ばなかった。呼ぶ代わりに、蝋燭の火を一度だけ、指でつまんで消した。


指先はしばらく痛んだ。


痛みが去ってから、私は新しい蝋燭に火を灯した。

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