第2話|羊皮紙の十七条
朝議の鐘が鳴ったとき、私はまだ神殿の回廊にいた。
夜勤の少年に返事を託してから、居室に戻るつもりだった。戻れなかった。足が動かなかったわけではなく、戻っても眠れないと分かっていたからだ。祈祷書に挟んだあの淡い横線を、もう一度見直したい気もあった。見直しても何も変わらないことも、同じくらい分かっていた。
迎えに来たのはロータルだった。
「ユーディト様。朝議が始まっております」
いつもより早い鐘だ、と私は思った。口には出さなかった。
「すぐ参ります」
ロータルは頭を下げたが、目は下がらなかった。昨夜から一度も下げていない目だ。
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朝議の間は皇宮の中央にある。天井には帝国歴代の皇帝の肖像が並び、床には濃い青の絨毯が敷かれている。青は帝国の色で、空でも海でもないと神官団に教わった。灯を落としたあと、星読みが天を仰ぐ色だという。
私は序列第二の位置に立った。正妃様の左後方にあたる。ヨーナスは朝議には出ない。まだ政務の席には呼ばれない齢だ。
陛下が入室された。新妃様が続かれた。
紅い薔薇の衣裳は、昨夜と違う。今朝は淡い金糸の、婚礼に近い色だった。正妃様が少しだけ顎を引かれるのが見えた。
「星読み神官団の定めを、余は見直す」
陛下の声に迷いはなかった。
「星の教母の制度は、帝国の古の慣習であり、敬うべきものだが、近代の政務にはすでに則さぬ。本日をもって廃する」
コスタス宰相が一歩進み出た。手には勅書。副署の蝋はすでに乾いていた。
「陛下の勅を、記録に残しましてございます」
勅書が回覧される。私の手元には回されなかった。当然だった。私は今朝、すでに「廃された側」なのだ。
正妃様は静かだった。新妃様は何もご覧にならずに微笑んでおられた。貴族たちの大半は事前に聞いていたのだろうと思う。残りの者たちも、この場で驚いた顔はしなかった。驚く顔ができるほど帝国の貴族は正直ではない。
私は何も言わなかった。言うべき権利が、まだ手元に残っていなかったからだ。
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朝議を退席してから、まっすぐ神殿に向かった。
馬車は使わず、渡り廊下を歩いた。冬の朝の渡り廊下には雪が吹き込む。裾が濡れるが気にしなかった。歩きたかったのだ。足を動かしていれば、頭のどこかが動かずに済んだ。
神殿の玄関を入ったところで、オルストフ神官長が立っておられた。
「ユーディト様」
「神官長様」
それだけの挨拶だった。
オルストフ神官長は髪も髭もすでに白い。星読みの衣は黒で、襟元に銀の星章だけが光る。無駄な装飾を嫌われる方だった。リサンデル様が生きておられた頃、彼女はよく神官長を「星を読みながら、人の心も読む方」と評していた。的確な評価だった、と今朝、思う。
「こちらへ」
神官長は私を神殿の奥に案内された。祈祷室ではなく、地下の文書庫だった。
文書庫には帝国歴代の暦と、皇族の通過儀礼の記録と、神殿契約の原本が収められている。入れるのは神官団と、契約の当事者に限られる。私は「星の教母」の資格で、七年前に一度、この部屋に入った。それ以来の二度目だった。
中央の机に、すでに一冊の羊皮紙の帳面が広げられていた。
神官長が先に出しておかれたものだ。私が来る前から。
「こちらを、ご確認ください」
頁は開かれていた。指で辿らずとも、視線が条項の番号に落ちた。
第十七条
星の教母の制度を廃するとき、側妃は、養育する皇子の同行を選ぶことができる。
一行だった。
公文書としては、あまりに素朴な言い回しだった。神殿と皇族が契約を交わしたとき、神殿の側が書き入れた一文なのだろうと思った。当時の神官が、どんな顔でこの条項を書き加えたのか、想像した。
「神官長様」
「はい」
「この条項の存在は、朝議にお伝えになりましたか」
「問われませんでしたので」
オルストフ神官長は動じなかった。
「宰相殿は、制度廃止の手続きのご確認をお求めになりました。神殿契約書の写しをお渡ししております。写しには十七条も含まれておりますゆえ」
「宰相は、読まなかったのですね」
「読まれたかどうかは、私の与り知るところではございません」
淡々と神官長は答えられた。表情も声も変わらなかった。ただ少しだけ、頁のほうへ視線を落とされた。
私はもう一度その一行を読み、考えた。
この条項は長く使われていない。使われていれば神殿の記録に残っているはずだ。そして神官長は、今朝、勅書が出る前から、私が来ることを見越してこの頁を開いておられた。
「神官長様は、いつから、この日のために」
問うてから、私は自分の声の軽さに気付いた。感情が乗りすぎていた。神殿の文書庫で出してよい声ではなかった。
神官長は答えられなかった。その代わり、もう一度、静かに言われた。
「ユーディト様。お帰りになる前に、聖星系譜を、ご確認くださいませ」
聖星系譜。
帝国の皇族が、建国以来どの星の系譜に属するかを記した神殿の秘録だ。名だけは私も知っていた。見たことはない。星の教母はその系譜を知らされない。知る必要がないからだ。
「いま、ですか」
「いいえ、いずれ。ご必要になった時に」
オルストフ神官長はそれ以上は語られなかった。
地下の階段を上がるとき、後ろで羊皮紙を閉じる音が小さく響いた。
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帰路の馬車の中で、ハンナが私の膝に毛皮を掛けた。
「奥様、冷えておられます」
「ええ」
「お手が震えておられますわ」
ハンナは手袋を脱がせて、自分の手で私の指を挟んだ。ハンナの掌はいつも侍女の仕事で乾いているが、温かかった。
「神官長様は」
ハンナが少しだけ躊躇って、口を開いた。
「昔から、お読みになりますね。こちらが言葉にする前のことを」
「ええ」
「リサンデル様も、そう仰っていましたわ」
馬車が石畳を踏む音を立てた。雪の重さに音が吸われて、いつもより柔らかく聞こえた。私は窓の外を見なかった。見ると泣いてしまいそうだったからだ。
ハンナは私の手を両手で包んだまま、もう何も言わなかった。
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居室に戻って、もう一度筆を執った。
北方語で短く書く。今度は封蝋の前に、蝋燭の火をじっと見つめた。心を整えるためだった。整え終わってから書いた。
こちらの旅装、ひと通り整いました。
出立の日は、こちらからお知らせします。
日付は書かなかった。書かないことで伝わることがある。あの方なら察してくださる。長年、そうやって文面を交わしてきた。
封蝋を落とすとき、黒の蝋は昨夜より少し多く滴った。手がまだ震えていたのかもしれない。
書き終えてから、祈祷書を開いた。リサンデル様の命日の頁。そこに挟んだ、昨夜の紙片。
裏の、淡い横線。
蝋燭の灯を近づけると、線の傾きまで分かった。あの方が引かれる線は、いつも少しだけ右下がりになる。右手で、紙面を押さえずに引かれる癖があるからだ。
「リサンデル」
誰もいない居室で私は呼んだ。
「あの子は、ご覧の通りの、良い子に育っています」
蝋燭の灯が少しだけ揺れた。今度は風のせいだった。
窓を、ハンナが閉め忘れていたのだ。私は立って自分で閉めた。閉めるついでに空を見た。朝の雪はもう上がっていた。雲の切れ間に、昼の星がひとつだけ、ぼんやりと残っていた。
聖星系譜。
神官長があの言葉を置かれた場所が、背中のほうで、静かに鳴っていた。




