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皇帝陛下、側妃を辞めます〜この子は私が育てました〜  作者: 九葉(くずは)


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第1話|星の教母、夜に筆を執る

白い結婚の側妃を、この帝国では「星の教母」と呼ぶ。皇帝の愛も子も得ない代わりに、亡き妃が遺した皇子を育てる女のことだ。


私は、その役を七年務めている。


七年目の今夜、陛下は、七歳の私の息子に、ひそかに、こう命じられた。


――あの女を、母と呼ぶな。


私の知らぬ場所で、あの子の耳に、直接落とされた一言である。


---


ヴェルシュタイン帝国中央大聖堂。新妃披露の宵の儀。


水晶の床の上を、紅い薔薇の意匠を縫い取った衣裳の裾がすべっていく。エリザヴェータ様。東方属国クィラル公領からお越しになった、二十二歳の新妃。歌がお上手だと噂に聞いていた。本当に、お上手だった。


私の隣で、ヨーナスが小さく身を固くした。栗色の髪の、七歳の男の子。母ではない女の指が皇帝の頬を撫でるのを見る、それが一秒で終わっても、一秒は一秒だ。


「殿下」


「はい、お母さま」


私は自分の袖口を指先で整え、ヨーナスの手を握り直した。皇族の序列は、公衆の前では厳密に守られる。第二皇子の傍らに立つ「星の教母」は、第三の位置。紅い薔薇の向こう側にいる。


かつて、ここに立っておられたのはリサンデル様だった。第一側妃として迎えられた日、陛下は一度も顔を上げられなかった。政略の婚姻にふさわしい、帝国の皇帝らしい、冷ややかな儀礼の所作だった。


今夜の陛下は、違った。


紅い薔薇の方が歌い始めた時、陛下は顔を上げられた。視線のすべてが、新妃の上にあった。――陛下は、この方に恋をしておられる。大聖堂に集まった貴族たちも、私も、同じ一言を同時に読み取った。


式典は、つつがなく終わった。


---


「ユーディト様」


側廊で、侍従長のロータルが礼をした。頭の上だけ下がって、目は下がらない。私は、この男が七年前から好きではない。


「陛下のお遣いでございます。新妃様より正妃様へのご親書を、ヨーナス殿下にお届けいただきたいとのこと。正妃様の庭までご同行賜りますよう」


「……新妃様の、ご親書ですか」


「はい」


ヨーナスの手を、ハンナが私の手から受け取った。七年、私の侍女を務めてきた女。リサンデル様から引き継いだ侍女だ。ハンナの肩は固かった。ハンナも、この遣いの「中身」を知らない。皇子に親書を運ばせる口実など、どう見ても作られたものだ。


「行ってまいります、お母さま」


ヨーナスが礼をした。礼の仕方を教えたのは私だ。膝を曲げる角度、視線の置き方、袖口の扱い。七歳の子に教えるべきではないと本で読んだが、皇子ならばいずれ覚えることだから、私が先に教えた。


「はい。いい子で行ってきなさい」


いつも通りの声で、答えた。


---


ヨーナスが戻ってきたのは、日付が変わる少し前だった。


「ハンナ」


ハンナは言葉を持たなかった。私の居室の扉の前で、立ち尽くしている。その足元で、ヨーナスが泣いていた。


声は漏らさない。ただ、じっと、涙だけ落としている。


声を殺して泣くことを、この子はいつの間にか覚えていた。


「お母さま」


私は膝をついた。


「お母さま、陛下が、ぼくに」


「おいで」


ヨーナスが私の胸に飛び込んできた。栗色の髪は、七年前、初めて私の腕に抱かれた夜と同じ匂いがする。リサンデル様が産み落とし、三日目に息を引き取られる前に、「どうか、この子を」と私に託された夜の匂いだ。


「お母さま、お母さま、ぼく、もう」


「大丈夫」


「お母さまと、お母さまと、呼ぶのは、もう」


「大丈夫」


「陛下が、」


「私はずっと貴方の母です」


ヨーナスの背中が震えるのを、私は止めなかった。止めるべきではない震えがある。


「誰が何を言っても。神殿がそう書いています。貴方が生まれた日に、私が約束しました」


「神殿が……?」


「はい」


「お母さまが、約束を?」


「はい」


ヨーナスはしばらく動かなかった。それから、ぽつりと言った。


「お母さまは、ずっと、お母さま?」


「ずっとです」


私は自分の声が揺れなかったことに、ほんの少し、誇りを感じた。


---


ヨーナスを寝かしつけた後、私は居室を出た。


ハンナが付いてこようとしたのを、手の甲で押しとどめた。


「今夜は、ひとりで行きます」


神殿の星の間は、皇宮の北隅にある。星読み神官団が暦を記す場所で、皇族であっても、祈祷の時以外は入れない。ただし「星の教母」だけは、いつでも入れる。


私はそこが好きだった。壁に刻まれた七つの星座の文様と、天井の星図。床は磨かれた黒石で、冬はどれだけ毛皮を履いても冷たさが足から上ってくる。夜、蝋燭を一本だけ灯すと、天井の銀箔が揺れて、星が瞬いているように見える。


リサンデル様が生きておられた頃、私たちはよくここに二人で逃げ込んだ。彼女は、ここでしか、声を上げて泣かなかった。帝国に来てから最期の日まで、公衆の前では一度も涙を見せなかった人が、ここでだけは子供のように泣いた。私はその横で、毛皮を彼女の肩に掛け直しながら、何も言わずに座っていた。


蝋燭を灯した。星が瞬いた。


「リサンデル」


私は、誰もいない空間に、友の名を呼んだ。敬称は、ここでは外した。七年ぶりに外した。


「七年経ちました。あなたの子は、元気です。絵がお上手になられました。北方の言葉を、少しだけ、覚えられました」


「今夜、ご披露がありました。紅い薔薇の方です。歌が、お上手でした」


「あなたの子に、今夜、陛下がこうお告げになりました。――あの女を、母と呼ぶな」


星の銀箔が、揺れた。風のない部屋で、揺れた。


「いいえ。私は、母であることをやめません。約束しましたから」


「ただ、」


私は文机に向かった。


「ただ、準備をしようと思います」


---


筆を執った。蝋を垂らし、封印をする前の紙に、北方語で書く。私の北方語は下手だ。それでも、帝国公用語で書けば、検閲に引っかかる。


  制度廃止の噂あり。

  念のため、あの子の旅装一式を整えた。


一行で、書いた。それ以上は、書かない。書けば、書き手の動揺が残る。


封蝋は赤ではなく、黒を使った。赤は皇族の色。黒は、星読み神官団の色。祈祷文書として届けるための色だ。


神殿の夜勤の少年に渡し、私は居室に戻った。ハンナが起きて待っていた。


「奥様」


「ハンナ」


「お帰りなさいませ」


「ええ」


何も訊かないハンナに、私は少しだけ頷いた。それで全て通じる七年を、私たちは過ごしてきた。


---


返信が来たのは、明け方だった。


眠れぬまま、私はもう一度、星の間に戻っていた。扉の下から、折り畳まれた紙片が差し入れられる音。


蝋燭を灯す前に、紙片を拾った。


北方語、一行。


  準備は整っている。号令を待つ。


私は紙片を裏返した。


真っ白なはずの裏側に、ごく淡い炭筆で、短い横線が一本引かれていた。昨年より、少し上の位置に。


私はそれが何か、知っている。


北方には、父親が子の背丈を毎年、扉や壁に刻む習慣がある。会えぬ子を想って、遠い地から推しはかりの高さを一本、手紙に描いて送る父もある。あの方は、それを七年間、続けてこられた。


私は毎年、実際の丈をヨーナスの肩で測り直し、その線の上か下かを確かめて、返信に書き足してきた。


七年間、誰にも言わず。


紙片を折り直した。祈祷書の間に挟んだ。挟んだ場所は、リサンデル様の命日の頁だった。


蝋燭が、揺れた。風のない部屋で、揺れた。


「リサンデル」


私は、もう一度、友の名を呼んだ。


「もう少しだけ、待ってください」


窓の外で、雪が降っていた。


――あなたのお方を匿ったあの冬の雪と、同じ色です。

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