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皇帝陛下、側妃を辞めます〜この子は私が育てました〜  作者: 九葉(くずは)


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第10話|春の庭、ふたつの役割

春の桃の花の匂いを、私は今年、初めてきちんと嗅いだ気がする。


七年前、私は帝国に入内するため故郷を離れた。その年の春の桃を、私は実家の庭で見たはずだった。ただ、匂いは覚えていなかった。


そういうことは、人の一生の中で何度か起こる、らしい。


ハンナが、そう言っていた。


---


離宮の庭の一番奥に、小さな芝の区画がある。そこで、ヨーナスがマティアス殿から短い木剣の扱いを習っていた。


「お母さま、見ていて」


ヨーナスは、振り返ってはそう言った。


「見ています」


私は桃の木の下の椅子に座って、見ていた。


マティアス殿は笑っておられた。笑うお顔を、私はそれほど多くは見たことがなかった。笑うというより、口角がほんの少し持ち上がる、という程度の笑み。それでも、雪の宿営地の夜のマント掛けの時の笑みとは、違っていた。


ヨーナスが木剣を振る。マティアス殿が軽く受け流される。受け流されるたびに、ヨーナスは悔しそうな顔をしたり、笑ったりしていた。七歳の顔の中に、まだ幼子の柔らかさが残っていた。


雪の下から、小さな緑の芽が、庭のあちこちに顔を出していた。


---


ある日、父が訪ねてきた。


ノルドグレンの離宮に、帝国の辺境伯が、輿車で到着した。帝国の東の辺境から、北の国境を越えて、ここまで来られるのは、簡単な旅ではなかった。


「父上」


「ユーディト」


六十を越えた父は、少し痩せられていた。母が亡くなってから食が細くなられたと、兄夫婦から聞いていた。それでも目は昔のまま、深い茶色だった。


「変わりはないか」


「はい」


「ヨーナスは」


「庭にいます」


父は一度だけ、庭のほうへ目をやられた。マティアス殿と木剣を合わせるヨーナスの姿を、しばらく見ておられた。何も言われなかった。


そのあとで、私のほうへ向き直って、こう仰った。


「帝国の辺境は、もう、お前のものではない」


「――はい」


「わしは、わしの代までは辺境を守る。お前の兄も、お前の兄の子も、当分は帝国の東を守る。ただ、お前は、帝国の家門の書から外れる。わしが今週中に、書を書き替える」


「……ありがとうございます」


「礼ではない」


父は静かに言われた。


「お前が神殿契約の条項に従って退位した以上、これは家門にとって恥ではない。ただし、お前を再び帝国の書に戻すことは、わしの代では、しない。お前を、ノルドグレンの客人の家に送り出す」


父は、私の肩に手を置かれた。武人だった頃の名残で、肩に置く手は少し重かった。


「この国で、幸せにやりなさい」


「はい」


父は、それ以上は何も仰らなかった。


---


父の訪問から、しばらく経った頃。


離宮の門の外に、帝国の紋章を付けた使者の一団が立ち尽くしていた、とハンナが報せに来た。


「母后さまからの親書、と申しておられます」


「――そう」


私は窓の外を見た。


使者の男は門番に受け渡しを拒まれて、雪解けの地面に立っていた。外套の裾が、春の泥で少し汚れていた。


「奥様、いかがなさいますか」


「受け取らずに、お返しなさい」


「……よろしいのですね」


「ええ」


ハンナは頷いて、使者の元へ向かった。


親書の内容を、私は想像していた。貴女を失ったのは帝国の過ちだった――おそらく、そういう意味のことが、母后さまのお筆跡で綴られているはずだった。


ただ、内容は重要ではなかった。


神殿契約書の十七条には、退位した星の教母を再び帝国に戻すための条項が無かった。


条項が無いということは、戻る道が無いということだった。


母后さまも、陛下も、宰相殿も、そのことはご自分たちの記録の中で、もうご確認されているはずだった。親書が届いたのは、記録の中ではなく、人の情けの中で、私に戻ってほしいというお気持ちを示すためのものだった。


私は、人の情けを受け取る段階は、とうに越えていた。


---


その夜、ハンナが殿下を寝かしつけた後、マティアス殿が離宮の居間に現れた。


珍しく、扉を叩いてから入って来られた。扉の外で立ち番をされていた頃とは違っていた。中へ足を進めるご許可を私が出したわけではなかったが、あの方はそうされる必要があるとご判断されたようだった。


「ユーディト様」


「マティアス殿」


「少々、お時間を頂きたく」


「はい」


マティアス殿は私の前に立たれた。外套は着ておられなかった。白い上衣だけの、武官の略装だった。


懐から、小さな布の包みを取り出された。


「――これは」


「指輪でございます」


包みを開かれた。中に、銀の指輪がひとつ。地が梳かれていて、北方の細工だった。ただ、地の上に刻まれている意匠は、北方のものではなかった。


帝国で、リサンデル様の遺品のひとつだった、銀の髪留めの意匠と同じだった。


「リサンデル様のお印でございます」


マティアス殿が、静かに言われた。


「ご遺品の髪留めの意匠を、この国の細工師に写してもらいました。貴女のお手の寸法に合わせて、作り直しました」


「――」


「この子の父として、貴女の夫として、二つの役割を並べて生きたいと思っております」


マティアス殿は、一度、息を整えられた。


「どちらを先にするかは、貴女がお選びください」


私は、指輪を受け取った。


受け取る手は震えた。


震えの中で、答えを探す必要はなかった。答えは、もうずっと前から、私の中にあった。


「――では、母が先で」


私は、そう答えた。


「承知しました」


マティアス殿は頭を下げられた。


それ以上のお言葉は、その夜、無かった。


---


マティアス殿がお帰りになった後、私は自分の居室の暖炉の前に立った。


行李の奥から、一通の羊皮紙を取り出した。


神殿契約書の写し。七年前、神官長が私に下さったものだった。原本は今も神殿の文書庫にある。この写しは、私個人が持っていた、もう一通の同じ書類だった。


「奥様」


ハンナが後ろに立っておられた。


「――焼きます」


「かしこまりました」


暖炉の火に、写しを差し入れた。


羊皮紙は、紙よりも燃えるのに時間がかかる。端から、少しずつ、黒く縮んでいった。第十七条の頁は、ちょうど真ん中あたりだった。その頁が火の中で文字の形を失っていくのを、私はまっすぐに見ていた。


ハンナは、横で、立ったまま、一緒に見ておられた。


「奥様」


「ええ」


「これで、星の教母様では、なくなられましたね」


「ええ」


「これからは、どうお呼びいたしましょう」


私は、少しだけ笑った。


「ユーディトで、結構です」


ハンナは一度だけ目を閉じられた。それから、頷かれた。


「かしこまりました、ユーディト様」


「様」は要らない、と言おうとして、やめた。ハンナの習慣を、一夜で変える必要はなかった。


---


翌日、庭に出た。


桃の木の下に、マティアス殿が立っておられた。ヨーナスがマティアス殿の周りを、小さな円を描いて駆け回っていた。木剣は、今日は持っていなかった。ただ、走っていた。


マティアス殿の隣に、私は立った。


「寒くはございませんか」


「いいえ」


指に、銀の指輪があった。昨夜、嵌めたまま、外していなかった。


ヨーナスが、私たちの前を通りすぎるたびに、「お母さま」「父上」と、代わる代わる呼んだ。「父上」という呼び方は誰に教わったのだろう、と、私は考えた。考えても答えは出なかった。あの子が、自然に選んだのだろう。


庭の向こう、まだ雪が残っている遠い林のほうへ、私は心の中で呼びかけた。


――リサンデル。


あの子を、ここまで、連れてきました。


あとは、私の人生を、生きます。


桃の花びらが、風に、一枚だけ落ちた。


落ちた場所は、ヨーナスの肩の上だった。

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